MrFahrenheit

いまを生きるのMrFahrenheitのネタバレレビュー・内容・結末

いまを生きる(1989年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

何年かおきに、ふと思い出して見たくなる。この映画は表向きは同性愛と無関係だが、巧みに仄めかす形で同性愛を描いた(英語で言うところのQueer codingされた)物語のように思う。

1959年、伝統ある名門校の息苦しい生活の中で自分らしさを発見し、最後にニールを悲劇に導いてしまう「伝統・父権主義と抑圧される者」の関係は「異性愛規範と同性愛」の関係にそのまま置き換え可能である。むしろ、そう読むのが自然とすら思えてくる。

作中で繰り返し引用されるホイットマン。キーティングが口ずさむチャイコフスキーのメロディ。演劇という表現に本来の自分自身を発見したニール。彼が舞台で演じた、真夏の夜の夢の妖精”パック”。舞台上で自分を表現した息子を見て、激昂し、拒絶し、陸軍学校に編入させ「矯正」しようとする父。何かピンとくる人は少なくないだろう。

絶望したニールが自らの命を絶つ夜、彼は両親の用意したパジャマを着ることを拒む。裸のまま窓を開け、舞台で演じたパックの冠を被り、雪の降る外気を感じ、この世を去る。ありのままの自分で生きることが叶わないのなら、せめてありのままの姿で死にたいというニールの最後の願いではなかったか。

ニールの死を知り、同級生の誰よりも取り乱し、果てしなく広がる雪景色に駆け出すトッド。こうなることが分かっていても涙が出てしまう。

英語で検索するとQueer解釈や考察は山ほどヒットするものの、原作の公式見解は見つからず、結局は鑑賞者の読み方次第なのだが、ここでキーティングの「視点を変えると見えてくるものが変わる」という劇中のセリフが再び重く響く。解釈は核心へ辿りつく手段であり、核心そのものとは異なるのだと。

また忘れかけた頃に見たい。