タルコフスキーの映画をスクリーンで拝見したのは、学生時代に授業の一環として広い講堂で鑑賞した「ストーカー」以来である。
今回の製作は生まれ育ったソビエト(現ロシア)ではなく、イタリアからの海外による資本協力で撮影された国際的な映画である。緻密に計算された圧倒的な映像の美しさには見惚れたが、難解で詩的な台詞の言い回しを追ってしまったため、一度だけでは内容の理解ができず、後日になるが字幕を読まずに映像だけに焦点を当てた異例の再鑑賞をおこなった。
「ノスタルジア」はタルコフスキーの原体験による父性の劣等感や宗教による死生観、そして望郷から生まれる観念的世界を水や火、光や陰影などの自然を媒介して描かれており、公開後の亡命宣言(1984年)に至るまでの葛藤が映画から読み取ることができる。
登場人物である詩人アンドレイ・ゴルチャコフはタルコフスキーの分身であるが、幼いときに家族を捨てた詩人である父親の投影でもある。それはアンドレイが母国を去ったように、自身と父親像をなぞらせて重ね合わせている。また言葉の壁をフォローする仕事上のパートナーで翻訳家でもあるドミツィアナ(イタリア)の愛人関係と置き去りにした妻(祖国であるソビエト)との相反するジレンマも抱えている。
1+1=1という定理
「一滴プラス一滴は、大きな一滴になり、世界は一つになるべきである。」
狂人学者ドメニクが提唱する、すべてがひとつという概念はボーダレス、もしくはグローバリズムによる地球主義は、個人の自由を否定し、全体主義的な一体感を強調する共産主義イデオロギーの発展系のようであり、アンドレイ本人ではない鏡に映し出されるドメニクの顔は、ひとつ(1)に統合(+)された自身の姿は、ドミツィアナの肉感的な誘惑よりも、古き良き社会主義的な思想に自身の故郷と同様に惹かれたのだろう。
nに0を乗ずれば(n0)1になる理屈は定義から証明はできるが、ドメニクの演算は乗法ではなく、加法の足し算であり、机上の空論。やがて論理破綻を迎える伏線である。(進まない自転車を漕ぎ続けるのも同様。)クライマックスにおける演説後の政治的抗議は焼身自殺という最悪の幕引きを迎える事となる。微動だにしない人間たちは賛同できないという意思表示であり、数年後のソ連崩壊を予見していたのではないだろうか。
そしてドミニクが炎に焼かれながら流れるベートーヴェンの「歓喜の歌」は、詩人シラーがフランス革命後に学生のために作った「自由讃歌」がベースである。音が途切れたのは革命の失敗を示唆している。
また別の解釈として、ドメニクの政治的な自死(1)と、焔を引き継いだ儀式を遂行した後に起きるアンドレイの個人的な病死(1)も、重なり合う(+)ことはなく、結論(=)はひとつの死(1)でしかない。そして(+)は十字架による死の象徴でもある。対比構造として最初のシーンで、ドミツィアナが誘ったがアンドレイが拒否した教会で、聖母像から出てくる複数の白い鳩は復活と生命の象徴である。
階段広場で人々が理路整然と並ぶカットは「戦艦ポチョムキン」による階段のシーンに対してのタルコフスキーなりのトリビュート。それはデ・パルマ「アンタッチャブル」の駅での銃撃シーン。テリー・ギリアム「未来世紀ブラジル」機械の落下場面、「ジョジョの奇妙な冒険」のDIO、ディアボロの登場場面でも階段を使われており、現代映画においてエイゼンシュタインの影響は計り知れない。
鑑賞後にロビーに公開時に制作された世界各国のポスター(ロシア、イタリア、アメリカ、ポーランド)日本が貼られていたが、貴重な資料として興味深かった。日本は他人の顔色が気になるのか、ストーリーに忠実で生真面目な印象。そしてポーランドのグラフィックデザイナー、ステイシス・エイドリゲヴィシウス(Stasys Eidrigevicius)の制作したポスターだけが、自身の絵画作品のような我が道を行くスタイルで、お国柄が反映されていた。
例えば完璧主義者のキューブリックや宮崎駿であれば、顔を真っ赤にしてポスターに抗議をする事を想像したが、タルコフスキーは意外と紙媒体の宣伝には、無頓着だったかもしれない。
〈Film Poster for Tarkovsky’s Nostalghia — Stasys Eidrigevicius〉
https://biblioklept.org/2014/05/31/film-poster-for-tarkovskys-nostalghia-stasys-eidrigevicius/
〈音楽家である武満徹が「ノスタルジア」の影響で作られた弦楽楽曲〉
https://www.youtube.com/watch?v=rsoasORXyj0
[Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下 10:20〜]