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市子のarchのレビュー・感想・評価

市子(2023年製作の映画)
4.2
本作を楽しみにして監督の処女作『ねこにみかん』を鑑賞した時は気絶するほど苛立たしい作品で、楽しみにしていた本作を観ることは正直かなり悩んだ。

だが率直に観てよかったと感じている。
市子という女性の人生を、彼女に関わった人々を巡ることで徐々に明らかにしていくミステリ形式(珍しくはない)は、分かったつもりの人々に他者の理解不可能性を突きつける物語になっており、「他者は他者でしかなく理解など出来ない」という自分の諦観に心地よくフィットしていた。
また、これは生まれた境遇や偶然の出会いによって、人生を奪われた人間が、独善的だろうと自分の人生を手に入れる姿に魅せられ、堕とされるというファム・ファタールの映画だというのも良かった。つまり、この映画の市子は観客や男性主人公の「他力本願の破滅願望」の為のファム・ファタールではない。彼女は彼女の為に、生きる。だからこそのファムファタールで、そこには観客すらも置いてきぼりなのだ。その証左は作品の構成に秘められている。
時系列をランダムにして語られる市子の過去は、若葉竜也の視点(彼の知ったこと)と見せかけて、かなり作為的に並べられている。その情報は、市子の周りの人々(名前がテロップされる者)と市子本人の視点のものもあり、その辺の整合性は漠然としている。それ自体には整合性を見出そうとするのは愚かなのは承知だが、どうしてもその合間に明らかに印象的に多用されるブラックアウト(それは市子を象徴する黒だ)によって、それらは断片的でしかなく、合間に何か語られていない物語があるのでは、という突き放された感覚を与えられるのだ。
市子を都合よく理解しようとしているのではないか?、市子の過去を知ること=市子の内面を知ることではないのでは?そんな疑念が突きつけられ、我々は結局1度として市子の内側には至れなかった、そんな気にされるのだ。
最後の鼻歌、あれは母親が現実逃避する時にする鼻歌で、晴れやかな空の元に映される晴れやかな表情にもはや一義的なニュアンスは認められない。そこに最後まで「他者」であり続ける心地良さ、フィクションとしての誠実さを自分は感じた。

この映画は決して掴むことの無い市子という虚の周辺に屯する者たちの話であり、彼女の人生をこれ以上知ることが出来ないのだという「映画が終わる」という行為によって、誰もが市子を見失うことで完成する映画なのだ。見事だと思う。



市子じゃなくなって終わるわけだけど、最後の石川瑠華の保険証には名前書いてあったのかな それが観客に見える形か否かで色々変わるけど
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