まぬままおま

老ナルキソスのまぬままおまのレビュー・感想・評価

老ナルキソス(2022年製作の映画)
3.8
劇場で鑑賞後、椅子に腰掛けていたらおじさんに声をかけられた。
「君、もし時間空いているなら食事どう?」
完全にナンパでした。上映前にこっちをみている視線に気づいてました。しかしまさか枯れ専のゲイとして眼差しを受けるとは。レオと同じ25歳になる年に何とも言いがたい経験をしました。

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ユートピアな関係と現実のドキュメント。

ナルシストの老絵作家・山崎とウリセンボーイ・レオ。ゲイでなければ決して出会うことがなかった二人だが、『みのむしもんた』の絵本を通して、山崎の元彼に会うため旅するほどに親密な関係になっていく。

冒頭で行われるSMプレイはパドリングと推測される。美青年に身体を痛められることに山崎は快感を覚えるのだが、その性的嗜好を私は理解できない。

レオは彼氏とパートナーシップ制度を利用するかどうかで揉めている。この描写もそうなのだが、本作はゲイを取り巻く現実や現代の日本の社会状況を劇としてドキュメントしているのである。ゲイのアプリや掲示板を利用した出会い方、コミュニティ、セックス描写、性的嗜好、パートナーシップ制度、カミングアウト、養子縁組、差別、老い、病、介護など。セックスの描写をみても、こういう風にやるんだと驚いたし、それは東海林監督の当事者性と演出の巧みさであろう。さらにパートナーシップ制度に関するシーンでは、制度の説明と当事者が利用する時の困難さが丁寧にドキュメントされている。役所でほかの市民がいるなか、説明することはアウティングの問題で現実では決してない劇としての演出だとは思うが、このような現実があることを的確に明るみに出していると思う。

本作は、レオが彼氏とパートナーシップを導入するのかどうか、それとも山崎と養子縁組をするのかどうか、また山崎がゲイの仲間や元彼との関わりで「葛藤」していくのだが、一貫してゲイであることの擁護とユートピアな関係が描かれていると思う。それは差別や不当な扱いを被っているゲイを肯定的に描きたいという背景があるように思われ、そこに価値判断はないのだが、そうなっている。ただそこで問題なのは、現実の歪曲化と物語に複数のゲイが登場しようと山崎の話でしかないことである。

現実の歪曲化をもっとも感じたのは、レオの彼氏が家族にレオを紹介する場面である。それはオンラインで行われ、直接の対面がなく、彼氏の家族は「理解がある」ということで終始和やかな空気が流れている。しまいには妹は「かっこいい」と父は「会ったら飲もう」という。レオがウリセンボーイをしていることを打ち明けるかどうかの葛藤はあるが、この家族のリアクションはユートピア過ぎると思う。例え、現代は性的マイノリティが可視化され、社会的な承認が「進んでいる」と言えど、家族にその当事者がいて、実際に目の前に現れたら戸惑ってしまうと思うのだ。それは異性愛の結婚相手を紹介するときも同様ではないかと言ってしまえばそうなのだが、そこの差異は無化してはいけない気がする。

山崎の話でしかないことも気になる部分である。山崎がレオやゲイ仲間や元彼とあっても自分のことしか考えてないことは、ナルシストゆえのことであると思うが、自己の外にある他者に出会ってないことでもある。それはレオとのSMプレイ後、ホームレスとSMプレイをする場面でみてとれる。ホームレスとのプレイでは、手首を拘束されたあと、罵倒され、屋上に放置されることになる。私にとって、これこそSMプレイにおける快楽だと思うのだが、山崎はレオに助けを求めるのである。このことからも山崎は痛みや快楽を自らの手中に収まる範囲でしか求めていないことが分かる。それは〈私〉の外に存在する他者と、私の意図に反する他者の行動と関わって、心情を変化させようとするわけでもないことである。だから物語を通して、山崎が変化することはない。養子にしてもいいと思えるほどのレオに会っても、旅をし元彼と会って過去の清算を行っても、新作の絵本が書けようとーレオとの関係が破綻した以上、創作意欲を失い書けないと私は思うのだがー、山崎は冒頭と変わらずアプリで「彼氏」をみつける始末である。この山崎という人物に自己完結してしまう物語には、他者の理解や別様の人間関係への開けを私は感じないのである。

ユートピアな世界の実現のために。それを実現するためには、本作のようにセクシュアルマイノリティーの当事者の視点から語られる映画が必要だ。ただユートピアな関係で描かれることは、自己完結した物語と化し、アイデンティティーの承認の物語にしかならないとも思うのだ。それでは冷徹に現実と関係をドキュメントするしかない。耐えがたい痛みが伴う。ただこの〈外〉の痛みの先に快楽がある。