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同じ下着を着るふたりの女(2021年製作の映画)
4.3
 「毒親」という言葉が我が国でもポツポツと語られるようになって久しいが、これはびっくりした。もはや「毒親」のレベルを越えてしまっている。完全に母性を失った母親は娘の前ではいつも女でいる。娘に張り合う。同性の親との適切な距離感は極めて難しい。同性同士だからこそわかり合えない難しさもある。現代ではしばしば仲の良い母娘は少し年の離れた姉妹のようにベタベタするという。家族の距離感は十人十色で、我々は雰囲気で察することしか出来ない。うっかりパートナーの家に呼ばれると、まったく違う景色が拡がる。ある種自分の家族が特殊な環境だったと気付く。30歳を目前に控えたイジョン(イム・ジホ )と母のスギョン(ヤン・マルボク)は、2人っきりで団地の狭い部屋に同居している。脱衣所の水道で下着をジャブジャブ洗う横で母親が娘のか自分のかわからない下着を分捕る姿がもう正気ではない。普通は仲の良い母娘でも自分の所有物と母の所有物とは分けるはずだ。しかしこの家のスギョンにはそんな常識が通用しない。娘の物は私の物、私の物も私の物というある種のジャイアン思考が身に付いてしまっている。若くしてシングルマザーとなったスギョンは幼い頃から娘に辛く当たり、そんな母に対してイジョンも長年積み重なった恨みを隠しきれずにいた。失礼ながらその狭い団地の一室ではいつも2人の戦争状態が続いている。母親はお腹を痛めて生んだ子供を所有物として扱う。世代的にはおよそ25前後の開きがあり、娘はいつもこの地獄のような抑圧状態を生きる。そこに事件は起こる。

 失礼ながら私にはイジョンがどうしてスギョンの元から全力で逃げないのかがさっぱりわからない。私ならすぐにでもこの地獄のような抑圧状態から全力で逃げる。「毒親」や「親ガチャ」のようなワードが複数飛び交う世界線では、遠く離れたあなたの親もという体験談に多くの人々が励まされ、うちだけが異常じゃなかったのかと時に涙を流す。この世界には案外、母性の持てない母親が複数いることがわかる。スギョン自身の仕事柄もあるが、明らかに彼女は男に染まることでしか自分を維持出来ない弱い生き物だ。男に甘えたり、猫なで声を立てたり、それを娘が見たらどう思うのかなんて考えずに全力で男にかしづく。その姿に娘はうんざりする。若い時分ならば娘は女としてではなく、母親としての立場を全うしてくれと思う。然し母親失格のスギョンは娘に平気で女としての姿を見せる。人間の成長過程というのは殆ど両親に左右される。両親の言動や身振りは最も小さな社会規範であり、子供は親の悪い部分ばかりを真似する。恋人や親友と出会い、家族とは違う別のレイヤーがあると知る。つまりイジョンにとってスギョンは自分をこの世に生み出したかけがえのない人物であり、鏡ともなり得る。鏡像の関係というのは自己と他者とを同一視する。つまりここでは母娘が共依存関係の渦中にいる。相手に監視され、自分も監視する恐ろしい監視社会の中で時にヒステリックな応対を試みる。その度に心はすり減って行くが娘はどういうわけか安全圏から地獄のような生家へ帰る激しい自己矛盾を抱える。

 だが共依存関係の2人にはある種逃避先となるような2つの家がある。母のスギョンの方は店で知り合った男と彼の娘が暮らす家であり、イジョンの方は会社の後輩でひたすら社畜のような人生を甘んじて受け入れるソヒ(チョン・ボラム)であり、イジョンは生まれて初めて自身の承認欲求を満たしてくれたソヒに恋をする。然しながらその後の展開は我々が予期したような心地良い展開にはならない。29歳まで外の世界を知らなかった彼女はまた、雑菌だらけの世界でも共依存的な交わりしか結ぶことが出来ない。私は今回、通訳の方を介して92年生まれのキム・セイン監督と少しお話をさせて頂いたのだが、私はあの停電の明度の低い場面でのアイスクリームはシャンタル・アケルマンへの無邪気なオマージュに思え、そのことを聞いたのだが監督はきょとんとした様子で答えが帰って来ない。何とキム・セイン監督はシャンタル・アケルマンを知らなかった。もし私がシャンタル・アケルマン監督を知っていたら参考にしたかもしれませんがと丁寧に返答してくれたが、現時点で彼女はシャンタル・アケルマンの映画を観ていない。然しながら今作に描かれる歪な母娘の関係は正にあの日のシャンタル・アケルマンへの応答ではないか。確かに編集には幾つも甘さが見えるし、映画として未熟さが垣間見える部分もあるものの、描くべき軸がはっきりと定まっている。しっかりと人間の業を炙り出している。新しい時代の新しい映画。
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