椿本力三郎

ケイコ 目を澄ませての椿本力三郎のレビュー・感想・評価

ケイコ 目を澄ませて(2022年製作の映画)
4.3
ボクシング、ボクサーとしての日常は
あくまでもメタファであって、
「コミュニティによって支えられ、
そのコミュニティを支えている人が
その前提であるコミュニティの崩壊と変容によって
自分のアイデンティティや生活に影響を受ける様」を描いている作品。

「ろうあ者の女性プロボクサー」である恵子を演じる岸井ゆきのが最高に上手い。
後半の回想シーンで三浦友和演じる会長と本当に楽しげで安心している表情を見せるが、この作品において恵子が
そのような表情を母親や弟、ジムの仲間、仕事仲間にも見せることはない。
どれだけボロボロでポンコツであっても、
恵子にはあのジムと会長がピカピカに見えていたのだ。

また、劇中の恵子には「はい」と2回だけ言うシーンがある。
たった2回だからこそ響く、
「あえて」極限にまで限定しているからこそ、強調される映画的演出と言えるだろう。

一時期、社会学者の宮台真司が「意味と強度」の違いについて、
あらゆるコンテクストを用いて主張していたことがあったが、
この作品を通してそれを思い出した。
昭和感満点の時代遅れのボクシングジムに居場所を見つけた恵子にとっては、最高のコミュニティだった。
意味ではなく、強度。

逆に本来ジムが大切にすべき若い男性が「女ばかり教えて強くなれそうにない」旨のセリフを残して去っていく姿は、そのジムのコミュニティ性を強調している。合う合わない、フィットするかしないかは、その人次第である。いつでも抜けることができる。
また、恵子が自分の弟とその彼女と一緒にボクシングの練習をし、ダンスを踊るシーンなどは、ジム以外に恵子が新たなつながりを見出しつつある予感として受け取るべきではないか。

セリフもBGMも極限まで削りに削られている。
ラストシーンの余韻も素晴らしいが
これは、まさにジムが無くなっても恵子の日常は
「続き、続いていく」を予感させるから、でしょう。
ろうあ者、女性、プロボクサーという、複数の要因が重なったインビジブルパーソンの日常をのぞかせてくれる、そして一定まで感情移入させてもらえる映画ならではの体験となりました。

さて、タイトルについて。
この作品はボクシングを「通して」描かれている作品である。
そう考えると「目を澄まして」というタイトルは、
過度に「ろうあ者のボクサー」というわかりやすい表面的な部分に注目させる、すなわち誤解させるだけの効果しか生まないのではないかと思う。
一方、どんな予告編であろうが、タイトルであろうが、
映画をメタファとして受け取ることができる受け手に対しては、
きちんと響く作品でもあって、
「目を澄まして」というタイトルはそれはそれで機能しているとも言える。