主演のP.べーアとF.ロゴフスキーとは、Chr.ペッツォルト監督はすでに2018年の作品『未来を乗り換えた男』(ドイツ語原題は、『Transit』)でいっしょに仕事をしていた。本作の邦題も、恐らく>>続きを読む
「異常」とは、常とは異なることである。常とは、普通のことであり、その普通と異なると、そこには、二重の意味での「可笑しみ」が生まれる。可笑しいから、変であり、可笑しいから、笑えるのである。この笑える部>>続きを読む
本作はオーストラリア映画であるが、脚本も書いている双子の兄弟監督ミヒャエル&ペーター・シュピーリヒ(Spierig、英語読みでスピエリッグ)は、元々は北ドイツで生まれた映画人である。彼らは、R.A.>>続きを読む
本作品はいつものE.ロメーアには相応しくなく、フィルムの色彩と場面場面の構図にかなり凝っている。フランス古典主義の絵画の色彩を思い起こさせるような濃厚なフィルムの色彩と供に絵画を一枚一枚映像化したよ>>続きを読む
1946年以来ドイツ社会におけるナチズムの問題を取り上げてきた「政治的芸術家」としてのW.シュタウテは、本作において「脱走兵」という問題に焦点を当てることにより、民主主義体制の中における軍隊の在り方>>続きを読む
1943年9月初旬に連合軍空挺部隊が、イタリア半島の「ブーツ」の踵に当たるタレントに降下して、イタリア方面での橋頭堡が築かれた。翌年6月には「ノルマンディー上陸作戦(ドイツ軍側は「Invasionイ>>続きを読む
監督のWolfgang Staudteは、1950年以来B.ブレヒトの『肝っ玉おっ母とその子供たち』の映画化に関わっていたが、ブレヒトとの折り合いが悪く、映画化は難航していた。いわば、次作を撮れずに>>続きを読む
「苦しくったってえ、悲しくったってえ、コートの中では平気なの。ボールが唸ると、胸が弾むわあ。レシーブ、トス、スパイク。ワン、ツー、ワン、ツー、アタック...」
上は、あるTVアニメ・シリーズの主>>続きを読む
赤い提灯が天井一面にぶら下がったカラオケバーでの場面などでその力量を示す撮影監督は、イギリス人のLarry Smithである。彼は、スタンリー・キューブリック監督の遺作となった『アイズ ワイド シャ>>続きを読む
エマニュエル夫人は、タイに駐在している外交官夫人ということになっており、その日々の倦怠(アンニュイ)さから抜け出し、夫の「理解」もあり、次第に性に目覚めていくというのが、このストーリーの大筋であるが>>続きを読む
映画製作にどこかのフィルム・コミッションが関わり、それに、そのどこかの地元の観光協会などが協力して、体のいい「ロード・ムーヴィ」である、なんて言う売り込みで提供される映画には気を付けたい。要は、その>>続きを読む
本作の監督の名を、沖田修一と言う。1977年に愛知県で生まれた沖田は、2002年から短編映画を撮り始め、2006年に初めての長編『このすばらしきせかい』を撮る。その3年後、本作で商業映画部門でデビュ>>続きを読む
本作では美術、衣裳、化粧に最良のスタッフを集め、キャメラマンは、Christian Matrasである。彼は、本作と同年にM.オフュルス監督の下、同様のテーマの作品『歴史は女で作られる』(原作:ロー>>続きを読む
吉良邸の赤穂浪士の討ち入りの場面では、本来ストーリーのクライマックスを形作るであろう討ち入りが、内蔵助が別れを告げた、今は亡き内匠頭の正室瑤泉院の傍で、そのお付きの戸田局(梅村蓉子)が、本懐を遂げた>>続きを読む
溝口のいわゆる「芸道三部作」で見らる日本精神主義の立場をさらに推し進めてゆけば、日本人の精神性の根源、主君に対する忠義心に行き当たるのであり、それは、「忠臣蔵」において祝祭的に表象されるのである。ゆ>>続きを読む
溝口は1939年から松竹系で、『残菊物語』に代表される、いわゆる、「芸道もの」を三本撮る。明治中期から、近代化のために強引に推し進めらた官製の欧化主義に対して、いわゆる国粋主義的、国家主義的、「日本>>続きを読む
『浪華悲歌』と同年に制作された本作『祇園の姉妹』は、スタッフ・キャストからして、『浪華悲歌』の姉妹編と言えるものであり、伝統的で、男に尽くすタイプの姉(それは、1933年作の『瀧の白糸』でも35年作>>続きを読む
溝口には珍しく現代劇の本作『浪華悲歌』は、大阪のモダンガール、「モガ」を描く。36年の段階で、約10年前の昭和初期の「昭和モダン」を描き、そこに、洋装の、釣り鐘型帽子クローシェを被らせた山田を登場さ>>続きを読む
名脚本家依田義賢(よだよしたか)によって、西鶴の『好色一代女』は、フランスの現実主義作家モーパッサンの作品『女の一生』ばりに塗り替えられて、語られる。映画の出だしでは、まずは、京都島原の遊郭の太夫身>>続きを読む
1942年段階でその技量がほぼ出来上がっていた小津は、本作を以って、戦時中にはそれ以外の作品を撮っていない。しっかりと反戦という立場には立たなかった小津は、撮ろうとすれば、国策映画を撮れたのではある>>続きを読む
奇策の戦略爆撃作戦、白黒映画でよりそのドキュメンタリー性が高まるが、今日的視点で言えば、戦略爆撃の問題性が言及されていない
ダム爆破のための奇抜な爆弾を実用化したのはイギリス人の技師であり、その奇>>続きを読む
モスキート型軽爆撃機が活躍する英国映画で、主演が、テレビ映画『0011ナポレオン・ソロ』のロシア人・Illya Kuryakinイリヤ・クリヤキン役で有名になったデヴィッド・マッカラムである。196>>続きを読む
第二次世界大戦中のノルウェーでのレジスタンス活動も描かれている英国・アメリカ合作映画
この映画にはノルウェーの対独レジスタンスが出てくる。1944年、ノルウェー人のベルグマン少尉(G.チャキリス)>>続きを読む
まず、本作の宣伝広告で、ジャンルを「ミステリー」と規定していることに強い違和感を覚えた。これは、犯罪推理ものではないか。
典型的な犯罪推理小説の犯行現場は、密室となるのが、常套である。故に、本作>>続きを読む
本作は、某国の民間航空会社の全面的支援を受けてのプロパガンダ映画である。基本的には、1970年代初頭(!)のテレビ映画『アテンション・プリーズ』とそのスタンスは異ならない、「スポコン」ならぬ、職業版>>続きを読む
ストーリーは月並みの展開で、フランスの「裏街道」を描く作品である。筆者は、基本的には一度観始めたらまずは最後まで観るタイプなのだが、それでもやはり観るのはそろそろ止めようかなと思ったところで、ある登>>続きを読む
本作は、まず、家族・家庭劇である。映画宣伝では、何かスリラー的要素を匂わせているが、それは、観客を誤った方向に誘導するミス・リードである。それを知ってか知らずか、日本の配給会社も、大変な邦題を付けた>>続きを読む
前回は何十年ぶりかで本作を観て、気になることを調べ上げた。それは、テキサス民兵軍が掲げる旗になぜ「1824」という数字が横に黒字で書かれてあるかである。
スペイン本国にヨーロッパ大陸のナポレオン>>続きを読む
青春映画に典型的な「青春は一度しかない」という月並みなスローガンがストーリー展開の動機になっているという点で、本作は、平凡なメッセージの繰り返しであるには違いないのであるが、それに、他者との関わり合>>続きを読む
『マッド・マックス』版『レジデント・イーヴル:絶滅』は自滅した
『マッド・マックス』版『レジデント・イーヴル:絶滅』は、舞台を砂漠に移したことで、閉塞感がなくなり、その分また緊張感がなくなった。こ>>続きを読む
強引な社長だったと言われる永田雅一が当時引き回し、今はない映画会社「大映」が製作した「諜報部員もの」が、本作『陸軍中野学校』シリーズである。
日本のジェームズ・ボンド役に大映の看板役者・市川雷蔵>>続きを読む
日本製ボンド映画となれば、ボンド・ガールが出てこなくてはスパイ映画にはならないから、本シリーズでも、各々それと言える女優が登場する。小川真由美(第一作で、市川の許嫁として登場、敵側スパイとなる)、村>>続きを読む
シリーズ第四作の本作『密約』の「ボンドガール」が、野際陽子である。英国諜報機関に利用される男爵夫人役であるが、ウィーン育ちということもあり、日本人女性離れをしており、野際は市川を誘惑する。本シリーズ>>続きを読む
人物背景も、ある程度、丁寧に描いているし、会社側と労働者側の実力での闘争もしっかりプロットの中に入れ込みながらも、結局は、単純な犯罪映画で終わるのかなと思いながら、映画を観ていると、本作は、終盤、意>>続きを読む
『ローマの休日』でWylerがなぜ二人の撮影監督を使ったのか、筆者は寡聞にしてその訳を知らないが、PlanerとAlekanの経歴を考えると、基本的にPlanerが野外撮影を、Alekanが室内撮影>>続きを読む
本作のストーリーは、「眉唾物」で、「下からの目」で見るという「ミクロ的」視点を取ることで、逆に「マクロ」が見えない、単なる「生き残った者」の「罪の意識」が強調される、心情主義的駄作となっている。ラス>>続きを読む