巴里得撤

オッペンハイマーの巴里得撤のレビュー・感想・評価

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
4.6

周知の通り、原子力爆弾の開発計画が物語のベースにあるわけだけど、本当のテーマは、オッペンハイマーという人物の複雑な人間性と、彼に代表される「科学者」という、世の一般的な倫理観に縛られない、不可思議な種族の生態なんじゃないかと感じた。

オッペンハイマーが指揮した世界初の核実験は「トリニティ」(=三位一体)と名づけられるが、オッペンハイマー自身が、ユダヤ系アメリカ人、科学者、そして政治家という「トリニティ」な要素をもった人物。この三要素のうち、一つでも欠けていたら、アメリカは原子力爆弾を手にすることはなかったんじゃないか。

当初は、ドイツに対抗する形で原爆の開発は進む。オッペンハイマーは、同胞であるユダヤ人を迫害するナチス・ドイツを打倒するというお題目を唱え、原爆を肯定する。ただ、それが彼の本心かどうかは一考の余地がある。ドイツが降伏したら、迷うことなくターゲットを日本に変更したわけだし。実は、ただただ、自分たちが見出した理論を実践に移したいだけだったのでは。

科学者としてのオッペンハイマーのヤバさがもっともあからさまに出ていたのは、政府の高官たちと「で、どうする? やっぱ日本に原爆落としちゃう?」と相談している場面。オッペンハイマーは、原爆を「神の力」にたとえる。そして「日本人に恐怖を植え付けるために原爆を落とす」と明言。その言葉の軽さには、吐き気を催す。

原爆の実用化には、オッペンハイマーの政治家的な能力が大きく活かされる。理論的には可能であっても、兵器として実戦に投入するには実験を成功させ、その威力を証明しなければならない。そのために多数の科学者の助けを必要としたオッペンハイマーは、各国の科学者のリクルーティングを精力的に行い、科学者版アヴェンジャーズを組織。そして、ニューメキシコの砂漠にロスアラモス国立研究所を建設する。

オッピー、イキイキとしてる。

苦労の甲斐があって原爆実用化&投下も大成功。しかし、賞賛の渦中にいながら、彼は罪悪感に苛まれるのだ。原爆投下成功を祝う集会で、幾度も幻視に襲われる。オッペンハイマーの名を讃える女性の顔は閃光に焼かれ、床には、真っ黒に炭化した人間が転がっている。それを彼は踏みつける。

でも、それって、いまさらじゃない? 原爆がどんな惨禍をもたらすか、知っていたはずでしょ? 

たぶん「知ってた」けど「知らなかった」。オッペンハイマーは理論の人なのだ。

理論的に原爆の威力を想定することは可能だけど、そのとき、オッペンハイマーの頭の中に顔のある血の通った「人間」はいない。しょせんは犠牲者として数字に換算される存在にすぎない。しかし、実際に原爆を日本人の頭上で爆発させて、ようやく犠牲者たちが、理論上の数字から顔のある存在になったんだろう。

彼の異変に気づかない周りの科学者たちは、大量殺戮に喝采を送る。彼らの姿は、ガザでジェノサイドを平然と行うイスラエルのシオニストと、どうしても重なってしまう。大義名分があれば、どんな残虐なことも平然と実行できる。それが科学者なのだ。

それに関連して言うと、アインシュタインとのやり取りも興味深い。「科学者」という種族が、一般人には理解できない絆で結ばれていることがわかる。この絆は原爆開発を推進するうえで不可欠なもので、だからこそグロテスクなものでもある。そして、オッペンハイマーは、自分のその種族の一員として、その地位と尊厳を守ることに人生を捧げる。

科学者が生み出した核兵器はいずれ世界を滅ぼす。しかし、オッペンハイマーは科学者を免罪しようとする。核兵器の危険性を訴えたのも、結局は、それが目的だったのかも。

オッペンハイマーは、上に挙げた「トリニティ」以外にもさまざまな顔を持っている。左翼かぶれの女たらし、ユーモアのセンスにあふれた雄弁家、砂漠を愛するロマンチスト、友情に厚い人情家、他者に対する共感性が決定的に欠けた冷血漢・・・・・・そんな矛盾に満ちた人物だからこそ、観客はスクリーンから目が離せない。

3時間はあっと言う間の、オスカーにふさわしい傑作。
巴里得撤

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