塔の上のカバンツェル

オッペンハイマーの塔の上のカバンツェルのネタバレレビュー・内容・結末

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
4.1

このレビューはネタバレを含みます

観てきました。
鑑賞前の危惧や予想に対して、ヒロシマとナガサキやオッペンハイマー自身のお話というより、原爆の歴史...更に言うなら核による相互確証破壊政策に至る道とその体制下に生きる過去、現在、未来の我々の話だったなと個人的には思います。

そこには、ノーラン映画につきものの”ノーランの映画”ゆえの議論ではなく、映画それ自体、そしてテーマである原爆そのものの議論を前進させようとする意図はストレートに観客に伝えようともしていたとも。その点で健全な作品ではあるのではないでしょうか。

本作、絶対に予備知識が必要だと思います。
それは映画に対する知識ではなく、まず史実の世界史、第二次世界大戦の始まりから原爆開発の開始とマンハッタン計画の経過、そして日本への投下という日本人の興味の中心的史実に加えて、戦後の核開発競争と水爆開発、赤狩り、そして我々が普段意識することはなくとも現に核の抑止力の秩序の下に生きているという事実について、義務教育レベルではありますが念のため再確認しておいた方の理解度が段違いになると思います。
特にマンハッタン計画下のオッペンハイマー周辺の人間関係は核兵器の歴史そのものなので、ここの相関図を知っていると、彼のヒューマンドラマにより没入できのではないかと。

なので、エンドロール後に劇場の若いカップルが難しくてわからなかった〜と言っていたのは無理もないかなとも思います。
映画単体の感想というより、核兵器の歩んできた歴史についてを含めて話す必要がある映画だと思うので。

自分は世界史の近現代史オタクなので、その辺が触りだけでも知れていたことで、物語をとてもスムーズに飲み込めました。
なるほど、映画通たちはノーラン映画を評して”難し気だけど、そんなに難しく理解しようとしなくていい”という言説がやっと少し理解できた気がします。
映画で語られる背景の情報量が確かに多いですが、文脈がわかるととてもすんなり物語が整理されて、エモーショナルなヒューマンドラマとしてストレートに映画を鑑賞できました。

史実なのでネタバレというネタバレもなく、あらかじめ事前情報や学習を経ていれば難しいこともなく、だからこそアメリカ本国でここまでヒットしたのでしょうし、一般の顧客層=庶民が本作で描かれるテーマについて友人や家族、観客通しで話すことを作りては望んでいるのでしょう。

犠牲になった被害者たちやヒロシマ・ナガサキを蔑ろにしていないから満足ではなく、劇中にオッペンハイマーが目を背けるシーンがあるのに原爆の犠牲者の写真を映さないから完全否定するでもなく、そしてノーランに結びつけることに労力を割くのでもなく。
原爆と核による抑止力の体制下で生きるということに真っ当な議論を前進させることができる映画として、作品の是非は置いておくとしても、作り手が慎重に製作にあたった点は本作から理解できると思います。

チャレンジであったとは思いますが、本作がもし8/15に公開されたとして、そこから激烈な反対表明や擁護の声、犠牲者の苦しみの声が様々に訴えられたとしても、原爆とは何だったのか、あの戦争に我々は何故踏み切ってしまったのか、それらの苦しくも健全な議論を普段無関心の一般層にも投げける機会にもなったのではないでしょうか。
少なくとも映画館で公開されたことに意味はあったと思います。
まだ観た着後なので、来週もう一度脚を運んで、整理したいです。


【本作におけるオッペンハイマー像について】

映画の途中まではオッペンハイマーの半生として語られていたのが、終盤にはどんどん展開が駆け足になっていき、最後には彼の物語ではなく、核兵器の誕生から未来の終末のその時の物語として総括されていくことになるわけで。
物語の展開が時に節操ないと言えるくらいチャカチャカ駆け足になりがちなノーラン映画ですが、一方で本作ではオッペンハイマーが”英雄”となっていく過程と共に運命の主導権が彼の手から離れていく様は、映画の展開とテーマに合致していたように感じます。

英雄が祭り挙げられていき、最終的には祖国に袋叩きにされる物語は古今東西枚挙に暇がありませんが、本作では”主人公が自分の功罪に心痛めていた~”という安直な表現ではなく、ちゃんとオッペンハイマーという人物を相対化しようと試みていた点は評価すべきではないでしょうか。

”彼は罪をわかっていても、もう一度同じように爆弾を落とす”

とは、劇中のセリフですが自らの選択に後悔していない姿勢と、犠牲者と未来への罪への自責の念は共存するという観点は、この作品の様々な視点を保とうとする美点ではないかと。

オッペンハイマーという人物が前半部では科学と知識の探求から、学問としての面白さ、さらにはこれは自分自身も不謹慎とは思いつつも原爆の開発のために様々な人々が議論を重ねて努力するという、まるで「プロジェクトX」のようでもあり、学問を追及する楽しさを一抹にも感じてしまったのが正直なところです。原爆の話なのに。
対して後半部は名声と地位を得るにつれ、科学者から徐々に政治家に変貌していく様、そして本来なら喜びに満ち溢れているはずのゴールが、究極的な破壊と破滅の未来へと突き進むしかないという。
劇中、理論物理学と実験物理学が手を携えるわけですが、こう考えた、よし試してみよう...その過程は原爆の開発から最後は投下に至る運命をそのまま内包しているようにすら思えてきます。
オッペンハイマーという史実の人物がたどり着く結末の業に対して、結局のところその功罪をジャッジするのは後世の人間であり、それは正しく本作の観客である我々の世代です。
歴史を形作る現代の我々に、断罪や再評価を検討するための視点とプロセスを我々に提供してくれる映画であるのだと。


【本作の美点について】

映像がすごい、これはノーラン映画の枕詞となって久しいでしょう。
確かに、宇宙の心理や爆発の音響効果など、映画館で驚くような体験を提供してくれる映画なのは間違いないです。
ただ、本作が優れているのは、ヒューマンドラマの部分ではないかと思います。

オッペンハイマーを中心とする原爆開発に関わる人々の群像劇として、アインシュタインやローレンス、ドイツ側のハイゼンベルグなど...史実の人物との関係性を手際よくまとめ上げているので、物語の構図への理解がかなりすんなり受け入れることができます。

描写について1つ印象に残った場面として、物語の軸の一つである、赤狩りと審問会のシークエンスで、オッペンハイマーの過去が容赦なく暴かれる際に、”丸裸にされる”という表現が、文字通り視覚的に丸裸になって不倫のセックスを公開させられているシーンはちょっとビックリしました。スピルバーグの「ミュンヘン」でもそうでしたが、余りベッドシーンを描かなかった作家がいざ描こうとすると、歪な場面に仕上がるかのかぁ、などと考えていました。

描写としては、本作で重要な対立構造となるオッペンハイマーとロバートダウニーjr演じるルイス・ストローズとの対決ですが、劇中で2度もオッペンハイマーにクリップボードを叩き落とさせるラミマレック(大好き)演じるD・L・ヒルが最後にオッペンハイマーに加勢するのに対して、ストローズは公衆でコケにされたことを決して忘れなかった構図は、科学者として合理的な判断と政治家としての立場という、対比の関係性になっていて素直に面白かった点でもあります。

本作、豪華な俳優陣が揃いすぎていて、”あ、あの人だ!”が多すぎて言い出したらキリがないですが、ノーラン作品で脇を固めることが多かったキリアン・マーフィーがここにきて主演としてオッペンハイマーを演じきったことは、素直に称賛したいです。

アカデミー賞ではいろいろありましたが、そもそもアカデミー賞自体がやはりクソなので、本作自体の意義が減じられることはないでしょう。



【原爆の扱いについて】

劇場でヒロシマ・ナガサキの名が口にされた瞬間から、劇場が完全に静まり返ったのが印象的でした。

原爆の投下都市を選定するにあたり、”京都はハネムーンで行ったから”外させる件は史実を基にしつつ、ある意味この会議室のシーンが一番印象的だったかもしれません。
原爆投下に対して、東京大空襲をはじめとする市民に対する無差別爆撃の道徳的見地や、始まりは真珠湾だったという指摘、死にかけている日本に投下する是非と、兵士の犠牲を少なくするためだという視点...。
特に最後の米兵の犠牲に関する言説は、アメリカ人の原爆投下の意義を説明するものとして日本からは批判的意見も数多く聞かれます。ただ、アメリカ側の視点として、字幕では”兵士たち”と表記されていましたが、言語では”Boys”=私たちの息子たちという意味も込められていたはずです。
それぞれの視点が提示されるこの場面が、この映画のできるだけ観客に議論を促す視点を提供しようとする姿勢を読み解く次第です。


この映画に対して原爆の被害者の写真を見せるシーンはあるのに写真は写さない点については、否定的意見も交わされるべきではないかとは考えています。
本作は原爆がもたらす暴力を映画的にショッキングな形で表現はしていますが、実際にもたらした惨状については直接は描写はしていません。
何を描き、何を描いていないかについて、各個人が考える余地は残されているはずです。


【原爆を扱った他作品と予備知識について】

本作を鑑賞するにあたり、一番よいのでは中学の時の世界史の教科書を引っ張り出してきて、ざっくりでいいので近現代史を少し予習するのがよいのではないでしょうか。
個人的には書籍になりますが、ロドリク・ブレースウェート著の「ハルマゲドン 人類と核」が核兵器の開発から現在に至る核戦略の格子を様々な視点で提供してくる、よい案内本だったと思います。

日本人的には、やはり「はだしのゲン」が最も被爆地を扱った作品として強烈にインパクトを残しているのは間違いないと思います。

映像作品としては、本作ではドイツ側の原爆開発を主導するハイゼンベルグもメインで登場するノルウェーのドラマシリーズ「ヘビー・ウォーター・ウォー」なども当時の世界の核開発競争の情勢を理解するのに唯意義な作品だと思います。
メインは原爆開発に必要な重水を生成するノルウェーの向上を爆破する秘密工作のお話なので、スパイもののジャンルにはなりますが、一方でドイツ側の核開発の展望も描かれるなど、冷戦期の核開発競争の前日章として、核の歴史の理解の一助になるはずです。

ただ、個人的にはやはり日本映画「この世界の片隅に」が印象的だったと言えます。
戦時中の市井の名もなき人々のつつましい日常とふいにもたらさせる死が、異常な対比となっている本作ですが、終盤の原爆投下後のヒロシマの地獄絵図は短い尺でありながら、あまりにショッキングです。近年の原爆描写の決定版なのは間違いなく。
加えて、この作品もまた、それぞれの視点を提供していくれる作品でもあると思います。
終盤、終戦とともに嘆き、そして叫ぶ主人公ら日本人のカットの合間に、ほんの一瞬ですが名もなき民家から太極旗が掲げられているシーンが映ります。
公平さを提示しようとする姿勢は、「オッペンハイマー」にも通じるのではいでしょうか。

原子爆弾による殺戮を許してはいけないのと同様に、あらゆる戦争の犠牲について加害と被害の両面性をあの大戦に記憶している我が国が、アメリカの「オッペンハイマー」に対して、どういう作品を今後世界に届けるのか、または届けないのか。
未来の作品群にまで思いを馳せる次第です。


【本作に思うこと】

本作、観る前は割と鬱でした。

原爆という敏感な話題に対して、右翼や左翼に核の恫喝が平然と行われるようになった現実の世界情勢、バーベンハイマーの悪乗りに加えて、しかもクリストファーノーランの映画。
この映画に対するアレやコレやにモヤモヤすることは必須で、最早ノーランに原爆で映画なんて撮ってくれるな、とすら思っていたのが正直なところでした。

この作品について、いろいろ言いたいことが出てくると思います。
ただ、それらすべての反応が正しいとも思います。
少なくともこの映画の意義は、議論するためにあるのでしょうから。


【参考文献】

公式パンフレット
「ハルマゲドン 人類と核」白水社
「米軍が記録した日本空襲」草思社
「オッペンハイマー原爆の父と呼ばれた男の栄光と悲劇」PHP研究所

【参考メディア】

「映像の世紀バタフライエフェクト マンハッタン計画 オッペンハイマーの栄光と罪」NHK