この作品もそうなのですが、五藤利弘監督の映画の家族の食卓のシーンがとても好きです。
特に子供たちの描写が絶妙で、言葉遣いや仕草で、その世代背景、その土地の文化も垣間見ることが出来る感じです。
その子へのご両親の愛情や信頼も。
この映画でも食卓を中心に家庭内でのストーリーは進みます。
予定調和ではない、ガチな親子の対話。ケンカ。
これはそのまま、本物の家庭なのではと、自分もその家庭の隅っこで様子を伺う猫みたいな気持ちになります。
なんだろう。この臨場感。
家族と暮らす事の無くなった自分には、心が和むのです。
サウダージ。もう帰らない。懐かしい切ない幸せな記憶。
制作秘話の中で、この映画が実話を元に制作された事を知りました。
となると、未成年者のプライバシー保護の観点からも、色々制限はあったのでしょう。
東日本大震災に絡む幻覚を見るエピソードも。
被災地ではよく耳にするエピソードですが。
遠く離れた栃木では。
悲しい場所から離れてほっとする気持ちもあります。
でも。
当たり前のことと、分かり合える、話し合える人もいない孤独も悲しみを強くしたと思います。
とても良くわかります。
父親の物語も。
長く続くほうき職人としての伝統工芸の家業の家督を、後継者を残せずに自ら閉じる気持ちとか。
自分の夢を諦めて、ほうき職人として家業を継いだ想いの行き先とか。
地方の家督の子は、子供の頃から何でもわがままが通るところがある気がします。
人の前に立つ節度はあっても、欲しい物は何でも親が用意してくれるみたいな。
なのに将来の職業は選べない。
もしかすると一生の伴侶も。
得ているようで失っている人生。
継がない娘への気持ちとか。
空ちゃんのモデルになった女の子には将来の夢があるそうなのです。
その夢を叶える力になりたいと言う背景もあったのでは。
その夢に自分の15歳の姿を重ねたのかもしれません。
もちろん、夢だけではなくて。
自分の家族があっての援助ですから。
副業としての学習塾に通わせることで、その夢が叶った時に、塾の良き広告塔になってくれるのではという計算もあったのかもしれません。
それを見守る、家業を継がない本物の子供の気持ち。
娘への相続は気に掛けるのに、自分にはただ当たり前のように側にいるだけで、言葉を掛けてくれない夫を見守る複雑な妻の気持ち。
多彩な伏線。綺麗事ではない物語を、それでも隠さずに言葉に紡ぐ事で、爽やかに風が流れます。
最初は不満を。憤りを。
そして悲しみを。やるせなさ、切なさを。
次第に相手の痛みに気付き、理解し、寄り添い、笑顔になれる場所へ出向く行動力に。
この時のお祭りのシーンは幸せな色に包まれる感じです。
お祭りは楽しい。
当たり前の大切さ。
どれ程の思いを越えて取り戻したのか。
人は弱いけれど、弱いのはあなただけではない。
曖昧なものは曖昧なままで。
それでも一緒に歩いていける。
最後に温かい気持ちが溢れる物語でした。
取り急ぎです。