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裁かるゝジャンヌの教授のレビュー・感想・評価

裁かるゝジャンヌ(1928年製作の映画)
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何の気なしに、こんな映画を観るなよ、と叱り飛ばしたい気持ちになるほど、観終わった後はまんまと衝撃を受けてしまった。
ずいぶん久しぶりに「映画的映画」としての古典(クラシック)の強烈な体験をした。

サイレント映画であることに冒頭少し面食らったのだが、陰影(コントラスト)の強い画面とクローズアップの応酬によって生まれる「会話劇」の物語的な「歪み」を劇伴以外に音は流れず映し出される体感の新鮮さ。

あまりにも端正な、そして重厚な画面作り。
特にジャンヌ(ルネ・ファルコッティ)苦悶を浮かべる表情の中に、怯えや怒り、絶望感や、ピエール・コーション(ウジェーヌ・シルヴァン)ら異端審問官たちの「暴力的」な言及を表すための過剰なクローズアップ。
セリフの文字情報はあれど、映像的陰影と、編集、劇伴のみの世界でこそ「映画的」興奮が満ちている。

描かれるのはドラマ的ヒロイックさに満ちたジャンヌ・ダルクの生涯ではなく、裁判記録に基づいた、特にジャンヌのセリフはまさに記録通りの冷徹な「これは現実の姿」として提示され、それを「フィクション」としての力を映画として提示するアプローチを行い、宗教だけでなく政治や社会構造における思惑について。

この「結論ありき」の茶番は現代に至るまで普遍的な事実で、事を巡る「正しさ/正しくなさ」ではなく、権威が既得権益を死守する為の個の排除、保守的思考による暴力の陰惨さを際立たせている。

一度は死への恐怖から信念を曲げたジャンヌが、それでも自身の「信念」に基づいて個人を主張することで、その悲劇性はより高まっている。加えて、その「個」を貫くことによって蹂躙され、尊厳を傷つけられ、拷問され、やがて死に至らされる過程の惨たらしさは真に迫ってくる。

「考えを変えさせる」ことの暴力性は、時代を問わず繰り返す愚行だからこそ、その行為自体の暴力性に鈍くなりがちな現代でも有効な作品。
圧倒的。
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