KnightsofOdessa

Uski Roti(原題)のKnightsofOdessaのレビュー・感想・評価

Uski Roti(原題)(1970年製作の映画)
4.5
[このパンを届けるために] 90点

ネオリアリズモに端を発するインドのニューウェーブ"パラレル・シネマ"はヌーヴェルバーグよりも先に起源があるらしく、サタジット・レイを筆頭にリトウィク・ガタク、ビマル・ロイ、ムリナル・セン、グル・ダットなど多くの監督を世に送り出した。同時に、インド映画は黄金時代を迎え、40年代後半から60年代の前半までに掛けて世界中の映画祭で上映される作品を次々と放っていった。1970年代に入ると運動は西ベンガル地域から西部まで拡大していく。リトウィク・ガタクの教え子だったマニ・カウルはここに含まれる。

物語は、村からの長い道のりを歩いてバス停へ向かい、一日一回だけそこを通るバス運転手の夫に昼ごはんを渡す妻、そしてその妹を主軸に、彼女たちの日常生活を描いている。妹に言い寄る地元のおっさん、都会に愛人がいて週一でしか田舎の家に帰ってこない夫など問題だらけの男たちを尻目に、姉は夫のパンを焼いて夫の帰りを待ち続け、妹はそんな姉の帰りを待ち続ける。

前後のショットの関連性が薄く、尺もまちまちなので、時間という概念がどこかへ吹っ飛んでしまったかのような驚きがある。それ以外にも一つ一つのカットが前のカットと微妙に同じ部分(のりしろ的な)が含まれるように繋がれていたり、時間経過を表す小さなジャンプカットが何度か使われたりなど、単なる撮影ミスとも思えるような些細な差異がこの映画の異様さを浮き彫りにする。座っていると思ったら立っていて、壁に寄りかかっていると思ったら両手で荷物を詰め始める。こういった長めの動作を短いカットを繋ぎ合わせるだけで完成させてしまう。画面外にいる語り部の"意識の流れ"に登場人物の意識が混入して出来た白昼夢のように、幻惑的で緩やかな時間が流れ続ける。最もイカれた展開は、"姉が自殺したかもしれない"と言って貯水池に浮いていた遺体を布で包んで運び出した次のカットで姉が普通に登場するところか。現実と夢の境目のあやふやさがここまでくると、"どこからが妄想なのか"という論争が白熱しそうだ。

家の壁、砂埃、畑や青空に至るまで徹底的に白が際立ち、そうなるほど不意に登場する黒、つまり夜や髪、目、トウモロコシの焦げが強調される。姉妹は白と黒のターバンを巻き、時間が経過しても決して入れ替えない細やかな設定からも、カウルの色への拘りは伝わってくる。終盤になって、姉が黒いターバンを巻いて夜の闇の中を歩き回るシーンでは、背景が真っ暗になってしまい、昼間のような白く開けた世界から一転して暗く狭いミニマルな世界へ突入する。これが現実なのか夢なのかすら分からず放浪する旅路の心許なさもあるが、昼間の気だるげな眼差しが一瞬にして力強いものに変わるバストショットに収束するとなれば、それはカウルの願いなのかもしれない。
KnightsofOdessa

KnightsofOdessa