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寝ても覚めてもの教授のレビュー・感想・評価

寝ても覚めても(2018年製作の映画)
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本作を観て、例えば恋愛における「倫理観」みたいなのは(常々思っていることでもあるが)、本当にどうでもいいや、と思えたというのが感想。

正解を持ち得ない「正しさ」という考えにおいて、恋愛に限らず他者を傷つけるという行為は人の数だけ存在する。それは原則として否定できない。
それは自分勝手に思える麦(東出昌大)の行動も、あるいは終盤の朝子(唐田えりか)の行動にも言える。
それは公開後に発覚したゴシップとも同じく、観客という存在の個々の倫理観が強く発動するのも理解はできるが、その前提を使った「生理現象」のような正義に則った話題には加わりたくない。

その上で作品について考えれば。
まさにその生理的感情の「正直さ」の美しさでもあり、暴力性でもあるのが本作の肝である。

その点で考えれば、麦と朝子は強く似ているし、それによって惹かれ合っているとも言える。
一方で、圧倒的他者であるからこそ麦と同じ顔をした別人、亮平(東出昌大)こそが伴侶となる人なのだろう。
本作を語る上でも、大事なのはその判断は往々にして誰もが間違うということでもあり、間違った後にでも引き返す勇気と、引き返した者を受け入れ許すことができるか、ということに焦点が当てられる。

「多様性」のある社会というものを目指すとき。肝心なのはそのふたつが重要なのだと僕は思うし、その点を物語として、映画として表現してくれることに一番の感動がある。

主人公たちの社会通念や倫理観では測れない心持ちをこそ、フィクションとして巧みに表現している。
それは麦と朝子の出会い頭の一目惚れエピソードもそうだし、バイク事故もそう。
全てが非現実的に不可思議に思うようなエピソードが続く。
朝子が劇中でセリフで語るように「全てが夢の中」のような不条理性である。

加えてゴシップに引きずられる形で浮かび上がるのは、ある種の「濱口ワールド」の悪夢的な体験、「創作者の罪」や「映画の悪夢」という、実のところの「作品の罪性」という表現の世界の持つ「呪術性」みたいなものだ。
現在のような時代には口幅ったいことだが、ものづくりに携わるということは「人ならざる領域」にも踏み込むところがあり、難しいのは「されど人間」でもあるというのは揺らがせない事実だということ。
大雑把に言えば「映画制作」も「映画」自体もそもそもが品行方正なものではない、というのもひとつの事実。
全てが「バランス良く」なんてものは無理としか思わない。

その上で、本作は人間の正しくなさに対して起こる「不条理劇」として面白い。
麦という人物のリアリティのなさ。
ほんわかとしていても結局のところ麦と同質のリアリティのなさを持つ朝子。
誠実だが俗物的でもある亮平。
瀬戸康史、山下リオ、伊藤沙莉が演じる友人たちの描き分けと、どこか演劇的なやり取り。

ファンタジー的な非現実性と、キャラクターの卑近さからくるリアルな描写がシームレスに展開する。要素としては東日本大震災が織り込まれるのもその一つ。

「喪失」が生む暴力性と負の連鎖からの再生への願望は濱口監督の過去作「PASSION」とも類似性があって、見事に「作家の映画」になっている。
現実と非現実の境界の曖昧さが、どこか現実に侵食してしまった感もある点も含めて面白かった。
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