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必死の逃避行のニューランドのレビュー・感想・評価

必死の逃避行(1947年製作の映画)
3.4
☑️『必死の逃避行』および『夜のストレンジャー』▶️▶️
撮影監督がアルトン以前のA·マン作品を観る。素材の画質自体がよくないので、比較は難しいが、より対象の人間的多面性·柔らかい奥行きに沿っている優しさ·断定から離れたところにいるようで、『必死の~』は、撃ち合い始まり不馴れな若いのが土台のトラックも動き·いきなり高い所から落ちるショック、天井からの笠つき電灯が揺れて影が不安定に揺らめく美と乱調の中の一群のやり取り、女2人のトゥショットに手前からかなりの長い距離を寄ってくか·実に細かくフィット気づかせずの縦移動、列車や車の疾走感、見破りと好感の視線の取り違い、夫婦を始め刑事も悪の側も可変的な皮膚·表情の軟らかい巾での捉え、車内·玄関前等瞬時入替わる抑圧と被抑圧の関係、暗く急な階段での廻り巻き込む激しく視覚的撃ち合い、等アルトンのスマートさとは違う間口の拡い押さえこみが清々しい。が、影の力·支配性はそう強くなく、決定的フィルム·ノワールには至っていない。
一方、本とカメラがリンクしてるわけでもあるまいが、半ば素人の弟が捕まって足元に火がついてるのに、犯罪に協力させんとして断られた知合いを身代わり自首、刑確定処刑まで復讐の対象とするモタモタしつこさ、身重の妻迄狙われてるを警察の手を借りるより·自力で隠す、という思考の悪のトップや主人公が、そういうのもいるのだろうが、その場合は弟や妻への偏執的な想いの面の描き込みがもっと必要な気もしてた(それを絡めて、逆の罠とするにしても)。その半端加減を身近に熱く感じさせる、(後にスチュアートやフォンダ·クーパーらが体現した汗ばむ)リアリティが薄い。
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そういった強いベースの描き込みの脆弱さは、子供を持てない女が架空の理想の娘を仕立てて、外部に対してもその存在を投げ掛け、幻想の自己世界を確たるものにしてゆく作業の継続に於いて、足がつかない引っ越し、架空の肖像画や思い出話や文通に引っ掛かってる内は満足も、感づいたり止めんとする者の抹殺へ、というもう一本のサイコ的というより崖上の旧い屋敷(マットペインティング)を活かしてのゴシックホラーにもなり得た作品『夜の~』においての方が際立つ。ソースの画質があまり良くないとさっき書いたが、図やカッティングも平均的な日常にくっついたままで、浅い感じが否めない。突然のミニチュアの列車事故の迫力や、気がいい薄幸なだけの身近で犯罪(的)を止めんとする者のうごき、俯瞰めや仰角やロー等の角度の付け方や切返し、などはいいが暴く側の2人の、自らの内の心のピンチへも通じてく描写が弱い。
健全さは『グレン·ミラー~』の監督として、この人の資質のひとつかも知れないが、もうひとつの資質の精神のピンチも決定的に根強いものというより、誰もが共有でき、より一般的な社会的感覚的気質へのアプローチ、看過出来ない作家的シャープさの手離せなさ故のものなのかもしれない。作家として固まる以前の作にそんな事を思わされた。
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