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小麦の買占めのharunomaのレビュー・感想・評価

小麦の買占め(1909年製作の映画)
5.0
Silent Film Days 2020
D・W・グリフィス選集 アーカイブ国立
ピアノ伴奏 神﨑えり

あれだけ言及され、N氏の言葉を想起しつつ
初めて観る
『小麦の買占め』A Corner in Wheat 1909
素晴らしい。ファーストの農夫たちのフルショット、シークェンスは24コマ以上のおそらく当時のハイスピードにあたり、一方ニューヨークの資本家たちのコマは18コマ以下の対比であるのはわかりつつ

それにしても農夫たちのショット。小麦畑を奥から画面手前へ近づいてくる農夫と馬の夕景の長回し。小麦に関する両の手の動き、恵みと喪失、その存在の在り方。
言葉にしてもただこぼれ落ちるしかないが、
ストローブ=ユイレの言っていたことが初めて腑に落ちた。ショットの手触りにロウリーの『ア・ゴースト・ストーリー』を喚起もするし、古典のサイレントが映画史の一番先端にあるというのは、フィルムを観ている実感としても強い。
グリフィスに映画のすべてがあると言える。さぼってきたがyoutubeでこれを見ても、わかるものはわからない。フィルムで観るしかない出会い。

『女は嘲笑した』A Woman Scorned 1911
扉についてのラスト・ミニッツ・レスキュー

『大虐殺』The Massacre 1912
序章の物語(死者たちのカップルと孤児)がブローアップによる奇妙で幻想的な不安定な画面から始まり、西部劇の活劇ではある。死の谷の地上において、襲撃後に先住民の遺体を映すショットがあるが、煙が流れ、犬すらも闊歩する野原を映すそのショットは、今まで思っていたグリフィスの在り方とは別様に、透徹した倫理と選択(もちろんアメリカにおけるトラウマ的記憶にも依るだろうが)が綯い交ぜになりつつも、特異点のようにただそこに説話論的には匿名的なカットであるかのように存在していた。死者に関するショットであるため、今後の継続的な問いとして持つ。
ピアノ伴奏 神﨑えり のダニー・ボーイ、もはや救いなしの戦場の諦念に近い状況のなか流れるピアノの旋律は、晩年のイーストウッドを思わせる。画面上、騎兵隊のラッパは鳴らない。

『男性』Gold and Glitter 1912
リリアン・ギッシュは格が違うということをまざまざと見せつけられる。ミシシッピの川沿いの小屋の前に座っている彼女を、ギッシュの横顔が見えるくらいに画面右端に斜めに捉えた登場シーンのカットから最後まで、どこからどう撮ろうと 髪を耳にかける、未来の恋人を木々の合間を縫って追いかける、カヌーでの逃避行、どんな場面でもあらゆる身振りも仕草も圧倒的に魅力的であり、スターである。リリアン・ギッシュはやはり、信じられないほど素晴らしい、ということが分かる。

『女は嘲笑した』『大虐殺』『男性』3作とも、こどもや赤ちゃんのクロースアップが素晴らしく(同軸の繋ぎも)、物語の最終的な希望として、嬉々としてグリフィスはこどもたちをクロースアップしている。馬や幌馬車もそうだが、人も、奥から手前へカメラに近づいてきてフレームアウトをする、単にそんな普通のことですら、貴重に思えてしまう。

「古典的」と呼ばれる作家たちの作品がいまでもわたくしたちを刺激しつづけているのは、彼らがまぎれもない「現在」の映画作家にほかならないからです。それは、彼らの作品をかたちづくっているショットが、見ているわたくしたちを、決まって映画の「現在」という名の最先端と向かいあわせてくれるからなのです。
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