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沈黙ーサイレンスーのNMのレビュー・感想・評価

沈黙ーサイレンスー(2015年製作の映画)
3.4
とても重そうな印象を持っていたのでなかなか踏み切れずやっと鑑賞。
だが意外とあっさりシンプルに描かれていてすいすい進む。

司祭が日本に来て心から喜ぶ「じいさま(聖職者ではない信仰上のリーダー)」たちの演技は涙を誘った。ただその一時的に村に幸せが訪れるシーンは、かえってその後の悲惨さを思わせてとても怖い。

キチジローは小説ではなかなかどちらかよく分からない人物だった印象だが、映画ではどう見ても裏切りそうなキャラクターで、司祭たちもそう言っている。だが作品ではいつもとても重要な役割を果たす。
その他にも信用できるのか分からない人が多く、人狼ゲーム状態。こういう状況で信仰を保つのは簡単ではないだろう。

来日した司祭たちも人間で、若いこともあり、聖人のような振る舞いができるわけではない。特にガルペのほうは厳しい生活とコミュニケーションの困難さが続き疲労も溜まっていく。だがさいごはやはり勇敢。

井上役・イッセー尾形の演技が頭抜けている。あの笑顔と声。一人勝ち。

神の沈黙がテーマであるだけあって、この司祭たちは常に神に助けを求めている。なぜ助けないのか、なぜ辛い目に遭わせるのか、助けてくれ、私が何をしたのですか。
まるでまだ相手からまだメールの返信がないのに自分はとめどなく即レスを求めるかのように。あまりの緊急事態だからそうもなる。

神を求めることは悪いことではない。だが人の願いを全てすぐ叶えてくれる神様などどこの宗教にもいない。神には神の考えがある、と納得できない限りはどんな信仰も難しい。
わざわざ沈黙というタイトルにしたのは「果たして本当に沈黙しているのでしょうか」という問いかけに他ならない。

満足だと言ったフェレイラの言葉と表情の乖離が大きい。顕偽録については自分から言い出せなかった。
この時の通辞(通訳)の説得は切り口を変えてきた。今まで棄教とキリスト教の欺瞞を指摘し続けてきたが、この時は仏教だろうと何だろうと人のために尽くすのだから一緒ではないかと語っている。じゃあキリスト教でも良いのではということになりそうだが。
彼らはよく「形だけのことだから」と誘惑する。一部正解で、絵や像をやむを得ない事情で踏んだからといって即地獄に落とされるような宗教ではもちろんない。だが、転んだとみなされることで全国の必死で耐えているキリシタンたちの信仰を折ることになりかねないと思うとそう簡単な話ではない。ずっとぎりぎりで耐えてきた自分の信仰だってそれを機にぷつりと糸が途切れるかもしれない。

そしてフェレイラとの議論も見どころ。フェレイラの主張にも一部筋が通っている。だがやはり一貫して自分自身に言い聞かせているように感じる。

なにしろ司祭たちは他人のために来日してくるぐらいなので、人が苦しんでいるところには弱い。役人たちはそこを見抜き、お前さえ棄教すればみんな助かると徹底的に説得し、他人が苦しむところを見せつける。
心身の弱った状態でもなお正常な、まして崇高な判断をするのは困難なこと。

ついに沈黙が破られるシーンが感動。全ての殉教者にこんな奇跡が起きていたら良いのに。沈黙は沈黙ではなかった。言葉こそなくとも、神は本当はいつでも彼らとともにいた。

棄教したとされる司祭たちや信徒たちが、本当に棄教していたのか疑問が残るシーンが多々。特にラスト。無理に棄教させられそのふりをしていても、自分からでない限り心は変えられないない。キチジローも同じ。
どんなに迫害して棄教させたり、逆に脅して信仰させようとしても、本人の意思がなければそれは形式でしかなされない。むしろ信仰が強くなることも。

重いが、それでも簡略化された印象。長編ではあったが、かなり端折ってこの長さになったという感じ。これ以上短く望むのは難しいだろう。
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