カトゥ

トゥモローランドのカトゥのレビュー・感想・評価

トゥモローランド(2015年製作の映画)
3.0
ディズニーランドで唯一、場所性から意図的に切り離されたエリア、それがトゥモローランド。未来の国。それも、60〜80年代の、輝かしい未来世界を示す区画。
 
この映画はお世辞にもよく出来ているとはいえない。偶然と登場人物の不注意とご都合主義によってドライブされるプロットは、もう少しなんとかならなかったのかと思わせてしまう。悪い意味で緩い。
でもそれでも、まごう事なきディズニー映画として成立している。
 
ディズニーとは何か。
僕は「モラルを娯楽として消費するコンテンツ」こそ、ディズニーの先駆と覇権の核だと考えている。なにしろモラルなので全世界には通用しないが、ともあれひとつの成功した文化だ。
そしてそれは多くの場合、ファンタジーとして形を為す。お姫様と勇者と楽しい住人達の世界。
ではこのトゥモローランドはどの辺りがディズニー的なのかというと、全編に貫かれる、輝かしい未来を真っ直ぐに信じる姿勢こそが、それなのだと思う。
ここには僕達が普段フィクションで消費している未来、つまりどこかに(あるいは全てに)ディストピアを孕んだ未来世界も、科学の副作用も、現代の引き写しみたいな人間の愚かさも無い未来がある。もちろん到達して十数年が経つ、この残念な21世紀とも異なる“未来”。ミッドセンチュリーやレトロフューチャーとも違う、今となっては楽観が過ぎる理想郷。今に至るも、そしてこれからも到達しえない世界。
つまりこれは、まるでSF映画みたいなかたちをしているが、まごうことなきファンタジー世界だ。
 
ファンタジーだから、未来を描いていても、いわゆるリアリティは気にしなくていい。いや、この非リアルな映画だからこそ、かつてディズニーランドで体験し、今ではぼんやりとしか覚えていないあの輝く未来世界が、映画のなかで伏線回収されていくような心地よさがあるのだ。
あの能天気なまでの未来感、そして僕達が日常で愉しむ“そうでなかった未来”のフィクション(同時期に発表された作品の筆頭が、『マッドマックス怒りのデスロード』だ)、それらもメタフィクション的な形式をしたこの作品を軸にひとつの意味を持つ。
未来を目指すというのは、かつて混じりっ気無しの希望だったのだ。
 
だからこその、ロケット発射台なのだろう。
そう、この作品では、いつものディズニー・ロゴのシンデレラ城が、ケープカナベラルのロケット発射台なのだ。かつてアポロ計画に使われたトラス構造の塔。ディズニーという形式の正義を担保するアメリカの実績。
アメリカの強さは、こういう部分に表れる。
意思と理想が、かつて人を月にまで送り込んだ。だからこそ、ロゴに発射台を据えたのだ。
このロゴマーク改変こそ、本作品のなかで、画竜に点けられた睛といえる。
 
 
前述の通り、粗の無い作品ではない。2回目を観るかと問われたら、たぶん観ない。
でも観た価値はあるし、他人にも薦めたい。今の時代に未来を描く意味なんてところまで思考が発散します。

 
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