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カフカの「城」のkojikojiのレビュー・感想・評価

カフカの「城」(1997年製作の映画)
3.4
前代未聞。
映画はカフカの「城」を忠実に描いている事は知っていた。
しかし、忠実と言っても未完を未完として映画にするだろうか。
少なくともカフカの描きたいものを理解したから映画にしたのではないのか。そうであるならば、少なくとも最後は幾分脚色してでも映画にすべきと思うのだが。

#1366 2023年 401本目
1997年 オーストリア🇦🇹/ドイツ🇩🇪

 ある寒村の城に雇われたはずの測量師K(ウルリッヒ・ミューエ)はいつまで経っても城の中に入ることができずに翻弄される。
 雇われたのか、雇われていないのかさえわからない。巨大な組織の「城」の代表者である長官クラムやその代理人さえ会うこともできない。Kが会えるのは伝令、執事の息子など「城」にほとんど行ったこともない者ばかり。彼が直接「城」に行こうとしても、そこへ行く道すらわからない。昼間ははっきり見えるのに辿りつけない「城」。

Kを村人は認めようとしない、城は測量士であることは認めても仕事は与えない。Kはその周辺でただうろうろするだけなのだ。

 Kは極めて宙ぶらりんの存在になる。
これこそカフカの書きたかったことだろう。これが始まってすぐ、しかもずーっと続く。  
 もちろん観る方はイライラする。人間は自然と不安定な位置を避ける習性ががあるから、この状況は耐えれない。
しかしカフカは人間とはそんな存在なのだと言いたいようだ。
 こんな不安定な状況を書くのはやはり、カフカの複雑な家庭環境が大きく影響を与えているのは間違いない。彼が生まれたプラハはまだ、チェコではなく、オーストリア=ハンガリー帝国領。ドイツ語を話す同化ユダヤ人の家庭に生まれている。

 この映画にストーリーはあってないようなもの。
そんな中で、「城」と言う巨大な組織を描くのにのに、長々と描かれる恋人フリーダとの結婚話は全く意味などないように思われた。おまけにフリーダ役のズザンネ・ロータが全く魅力がないどころか、その会話すら苛立つような内容から、退屈極まりない。せめて彼女が魅力的なら、まだマシな映画になったと思うのだが。

 問題は「城」とは何の象徴なのか?
普通に考えれば、カフカのプラハでの境遇、Kがやってきた村での立場と城との関係を考えれば「社会」そのものと言えるのではないか。
 しかし見方によっては、ヨーロッパということを考えると宗教とも考えられるし、哲学における「真理」や芸術における「美」とも思えないでもない。しかしこれはちょっと考えすぎか?💦
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