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自由は何処にのニューランドのレビュー・感想・評価

自由は何処に(1952年製作の映画)
4.0
☑️『自由は何処に』及び『ヨーロッパ1951年』▶️▶️
確かにロッセリーニ⋅タッチは散見されるが、基本彼のスタイル⋅トーンはメインには認められない。移動にしても、構図やカッティングにしても、野放図さ⋅詰め込みすぎない事⋅透明で緊密な緊張感らが、その特徴だとしたら、その度合いはかなり限定され、どちらかというと僅かな方に入る。退き⋅寄りや横からの図のどんでんや90°変⋅切返しの細かさ、画面への多様な目的のある人々の押し入れ方⋅捌き方、等部分的に’50年代フェリーニのタッチ(以前、実際関与はどっかで読んだ気がするような、しないような。上映後の話は、5分と起きてた事はないのでわからない)、それ以上に普及的タッチのところは伊映画に詳しくないので特定できないが、例えばモニチェリ辺りとでもしときたいスタイル、といった非ロッセリーニを感じさせる所が多い。しかし、創り手にとって作家性は問題だろうが、観てる側は面白ければいいので、これで充分な気もする。トトの職業俳優としてのプライドの実践が明らかに細かく⋅撮るカメラの密着度もしつこすぎるが、内容的には’30年から22年娑婆には不在だった人間の、ピュア⋅弱さ⋅個人の力の疑わなさの、浮かび上がり⋅孤立と不安定、を描きロッセリーニ的なテイストはあるし、弟の馴染みの劇的な内面からの激しさを表す音楽は、いつも通りなので、何とかロッセリーニ作品たり得てる気もする。
妻から襲われたと聞かされ、親友を殺し長い刑期となったが、刑務所内の面倒見⋅リーダーシップ⋅健全指向から、4年早く仮釈になった元理髪師の男が、女への関心解放⋅昔の光景捜しの自らの欲求や、その流れで様々利用されたり、収監前と変わってる、関心ある内はひっかかるも⋅不利益や興味無くなると、道義心消えて平然と180°冷たくなる社会の空気に、心まで凍てついてく(僅かの休息でカップルで躍り続けるコンテストのプロデューサーの責務放棄危機に肩入れ、多勢雑魚寝の安宿を得るも女主人シビア、前科絡み理髪師職を恐れられ⋅立ち行かぬ生計、先に出所の面倒をみてやった男と再会、偶然親戚一堂と再会⋅歓迎されるも、亡き妻の真相や⋅浮遊ユダヤ人引受け絡み悪巧みに利用される)。全てに自分よりデカく若く魅惑的女(用意もされ)に振り回される(『アマルコルド』的なサドルに乗っかる他の成熟した女の尻への目移りも)。以前計画してた脱獄と正反対の刑務所侵入(戻り)を企て、裁判を経て、再収監をいきいき果たす。
作家(主義)の刻印など、あまりどうでもいい。要は面白ければいい、表面的納得⋅理論的理解はいらない。このごった煮、しかし足を決定的には掬われないキレ、先見性、途絶えぬ密度⋅詰込み⋅自己顕示、それらの境のない一体、あまり例のない作。仕掛けても、段々大人しく⋅或いは華々しい花火で括られるのが、商業映画の普通の中。
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元々復活しても大寺講座に興味はなく、次回の『ローマで~』も今回あれだけ大傑作を連呼されると、観る気は失せる。只、何日か前、空いた時間でバーグマン=ロッセリーニの何本かの内でも、ベスト3に入りそうな『ヨーロッパ~』を三見し(フィルムで観れた時代に比べると、画質はよくないが)、同じ時期のあまり語られない『自由は~』を、ロッセリーニは張り子の虎かという命題の上でも観たくなった。実際ロッセリーニという作家は、戦後直後の荒廃した土地と人心をまま写し取った時期、バーグマンと組んだ偽りの安定の中の個人の内面追及期、歴史に科学的に大胆⋅正確な鉈を振るった時代、どこにピークがあるのかよく分からない。
戦争中を逃れた英国を空襲から生き延び、戦後米国大企業のローマ赴任の夫に着いてきて、喧騒の中、息子の死に遭遇して苦悩、回りから狂人扱い、不倫⋅共産主義化を疑われるほど、変貌してゆくヒロイン。失業⋅貧困⋅病い⋅住居難⋅犯罪に怯える気づかなかった嘗ての自分が気にもとめなかった階層の存在⋅多数。労働の実態。それでも生命⋅歓びに無条件に開放的な資質。それに対する条件⋅限界を設けない、救いの求めに応える姿勢の追求⋅実践。
自在な前後⋅横⋅上下への(フォロー⋅掻き分け)移動⋅パンの自在⋅自由さと力、機械化支配の労働環境の『ストロンボリ』の漁を超える純粋モンタージュの、シャープな力。しかし、全⋅寄り⋅対応のデクパージュは、敢えてか、透明な呼応のベースを少しずつ外して行き続ける。しかし、終盤、拘りない自然な眺める捉えまま、縦移動も吸い付き加わる⋅カドが削がれた感覚の正面CUリヴァースなどの世界へ移りこんでて、内容も外形も宗教の救いの枠を更に超える、バーグマン主演作でも突出した高みに入ってきてる。
「少しでも息子を理解していたら救えたのでは、の思いが途切れない」「血栓が死因とされ、自殺の意志もそこに重なってたとしても、そこまで⋅⋅⋅⋅ 人生は続くんだ」/「労働もしたのか、いい経験に」「いや、隷属でしかない」「彼らは何故端から諦めてるのか。(雇用⋅住居で苦しく暗い)彼らを知によって目覚めさせてく事が重要」「いえ、(救いへの)希望が大事。彼女たちは元より(庶民的)明るさを持っている」/「共産主義者? 夫を棄てさせた新聞記者の感化もあり」「いや、違う。全て夫の誤解」/「貴女の生き方⋅考え方では、(神父の)私も罪人だ。救いの手の差しのべかたにも、規則⋅ルールが阻む限度がある」「いいえ、愛に限界はない。私に救いを求める全ての人に応えなくてはいけない。神が私に下さった愛の全てを差し出さねば。夫の元に戻るは容易い事かもしれない。しかし、全ての事に対し、自由でなければ、救いのあらゆる形に応える事は出来ない。じつは私の源は、憎悪だ。無力な自分自身に対する憎しみだ」「読んでもいない福音書を物語られる」「いや、私にはそれも無関係」/「精神異常者として、隔離収容されるような人ではない。あのひとは聖女」
終盤までも、カメラワーク⋅構図、才気がつまってるが、呼応感に欠ける、少し一体性はないが、その場その場の即興的流れに任せている自由と力が存する。
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