KnightsofOdessa

メフィストのKnightsofOdessaのレビュー・感想・評価

メフィスト(1981年製作の映画)
3.0
["ただの役者"という絶望、ブランダウアー三部作①] 60点

主演のクラウス・マリア・ブランダウアーの名を冠したトリロジーの幕開けを飾る本作品は一昔前まではアカデミー外国語映画賞を受賞した唯一のハンガリー映画だった。それによって英語圏で最も知られたハンガリー映画の一つとなり、権威に弱い日本に上陸したのは想像の通りだが、そのままテレビで何度か放映された後そっ閉じされてしまった。理由は簡単に分かる。本作品が非常に退屈な文芸映画だからだ。

本作品はグスタフ・グリュンドゲンスという実在の俳優をモデルにトーマス・マンの息子クラウスが書き上げた同名小説を元に製作された。主人公ヘンドリックは共産主義的な考えを持っていたが、自らの自己顕示欲と権力欲に溺れた彼はリベラリストの義父を頼ってベルリン国立劇場に呼ばれることになり、そこで彼は『ファウスト』に登場するメフィストフェレス=メフィストを演じて喝采を浴びる。ヘンドリックの前では共産主義的な考えは自己顕示欲に負け、ナチスに取り入って遂にはベルリン国立劇場の総監督に就任する。

しかし、彼が純粋な自己顕示欲の権化であったかと言われるとそういうわけでもなく、役者も一人の人間でありその軸を中心に様々な仮面を付けて役柄に化けることで時代に依らず人の心を動かせると思っている節がある。つまり自分が見せるものを皆も見たいと考えていたようだ。こうして自己欺瞞まで獲得していたヘンドリックは自身がメフィストであるかのように州首相(プロイセン州首相ということはゲーリングか)に取り入り、ハムレットを用いて第三帝国を礼賛する。どう考えても州首相がメフィストであり、第三帝国に魂を売り渡すヘンドリックはファウストの側であるのだが本人がそれに気が付くのはだいぶ先になる。

ナチスに魂を売り渡したヘンドリックは、それでも自分は"表現者"であると考えていたようだが、彼が被る"役柄"という仮面の下にヘンドリックという人間は存在せず、仮面がヘンドリックそのものになってしまうことに気が付かなかった。その時点で彼は"表現者"ではなく"体現者"となり、自分を見失った"第三帝国の記号"でしかなくなってしまった。そして、仮面が自分そのものになったと気がついたとき、彼は"自分は役者でしか無い"という事実を認識せざるを得なくなる。大光量のスポットライトを浴びて追い詰められたヘンドリックが呟くこの小さな言葉が彼の心を一瞬で食い尽くした絶望なんだろう。

良くも悪くも非常に真面目な映画だった。確かに賞レースには向いてるが。
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