デニロ

女性の勝利のデニロのレビュー・感想・評価

女性の勝利(1946年製作の映画)
3.0
1946年製作公開。脚本野田高梧、新藤兼人。監督溝口健二。溝口健二が戦後第1作に選んだのが本作。封建制打倒、女性の自立、解放を謳いあげる。主演は田中絹代。弁護士を演じる。

肉はいりませんか。乳飲み子を抱いた女が玄関口でそう願う。いいわ、戴くわ、と田中絹代が答えると、田中絹代の母が旧知の娘であると気付き問いかける。うろたえた女は品物をそそくさと仕舞い逃げる。

逃げた女は、田中絹代の女学校時代の同窓生三浦光子。母親と夫、乳飲み子の四人暮らし。夫は戦時中軍需工場に勤務していたがトラック事故にあい重傷、敗戦により軍需工場は閉鎖となり会社からの支援もうやむやになる。もはや絵にかいたような困窮。

しばらくして街中で邂逅する田中絹代と三浦光子。田中絹代は、戦争も終わって、これからはいい社会になるから、気持ちを前に持って、等と三浦光子にとったら毒にも薬にもならぬような言葉を投げつける。ある夜、その三浦光子が田中絹代の下に駆け込んでくる。夫が死に、初七日を終えた。今日までは多用で気が張っていたが、これから先のありように不安が襲い掛かって苦しくなった。ふと気づくと胸に抱いていた赤ちゃんの息が止まっていた。

検察は、被告人の計画的な殺人であると断じ、母たるものは如何なる境遇に陥ろうともわが子を手にかけるなどあってはならぬ事であり、責任の放棄である。女性全般への戒めも意味も込め実刑5年、と封建主義的な社会観を剝き出しの論告を行う。

弁護人の田中絹代は弁論する。被告人が斯くなる状況に陥ったのは、夫の事故の面倒をみることをしなかった軍需会社であり、軍需会社を利用していた国だ。今の世の中にはこのような状況に置かれている、封建制に押しつぶされている女性が大勢いる。裁判所の役割は、罪を科することではなく、人を愛し救うことではないのか。

田中絹代の弁論を聞いて、「栃木実父殺し事件」の弁護人の弁論を思い出した。14歳になった頃より実父に強姦され続けて、5人の子を産み生き残った3人を育てていた娘が、勤務先で知り合った男性と恋に落ち、そのことを父親に告げたところ逆上した父親に折檻される。その父親が酒をかっ喰らって眠りについたとき、思い余った彼女は腰ひもで父を絞殺する。刑法第200条の尊属殺人罪が適用され求刑されていた。弁護人は、被告人は犠牲者であり、「人倫の大本、人類普遍の道徳原理」を踏みにじっているのは被害者の方ではないか。そして、「本件被害者の如き父親をも刑法第200条は尊属として保護しているのでありましょうか。かかる畜生にも等しい父親であっても、その子は服従を要求されるのが人類普遍の道徳原理なのでありましょうか。本件被告人の犯行に対し、刑法第200条が適用され、かつ右規定が憲法第14条に違反しないものであるとすれば、憲法とはなんと無力なものでありましょうか。弁護人は法曹としてその無力さを嘆かざるをえないのであります。また、もしそうであるとすれば、もはや、刑法第200条の合憲論の根拠は音を立てて崩れ去ると考えられるがどうでありましょうか。」と続けた。この弁護人こそ、弁護士のなかの弁護士であると高校生は思ったものです。

ラスト。弁護士の法服を纏い判決の法廷に向かう田中絹代の強い目で終わる。

サイドストーリーがあって、対抗する検事は戦時中田中絹代の恋人を自由主義者であるとして監獄に送った人物であり、しかも義兄なのです。姉桑野通子からは、この事件から降りて、と懇願されるも断固拒否。姉さんこそあんな家を出なさい、と決裂する。が、桑野通子も世の中は変わると気付いている。論告と弁論を聞きながら、わたしは生まれ変わる。もう人形のような女じゃありません。ひとりの女になります、という意のメモを書く。

それにしても帝国憲法下における裁判所では、裁判官と検察の席は同じ列にあったのですね。

国立映画アーカイブ 日本の女性映画人(1)にて
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