カラン

デモンズ’95のカランのレビュー・感想・評価

デモンズ’95(1994年製作の映画)
4.5
墓地の管理人の男は拳銃の発砲を繰り返している。墓場の死体が甦るから、頭を撃ち抜いて、死者を殺すのであった。死者を殺し続けると、生と死の境が曖昧になって、、、のホラー・コメディ。

☆可哀想なイタリア映画

イタリアは自分たちの映画をなくしかけていた。ヴィスコンティやベルトルッチ、リリアーナ・カヴァーニやルチオ・フルチ。彼らは映画を作るためだけに、英語を話す映画にして、映画をグローバルに販売するために、彼らのそれぞれの物語が固有に内包する映画空間をスポイルしてきた。

しかし、英語にすると販売網が広がる。もしそうでなければ、時の試練を超える傑作となったかもしれない数々の映画は、映画を内容でしか捉えない概念的鑑賞者たちがずっと守ってきたし、今もそうなのだろう。ナチス将校の格好をした連中が英語を話しているのに、その人物がいる映画の空間はドイツやオーストリアであると、なぜ感じられるのか?それは《想像》しているからである。

アン・リーの『ブロークバック・マウンテン』(2005)という映画で、今は亡きヒース・レジャーが幾つかのインタビューで、自分が演じたイニスの喋り方について、おおよそ次のように語っている。

「ワイオミングのアクセントに、ちょっとテキサスを混ぜた。ワイオミングの訛りをはっきりだしながらも、その2つを近づけるようにしたんだ。」

「映画のはじめは、イニスは少ししか喋らないが、徐々に訛りを前に出して、情熱とエネルギーを表現していく。次に、落ちぶれて、孤独で、悲劇的な感じになっていく。」

「なぜって、イニスは苦虫を噛みつぶしたような人間だから。ぼくは自分の口を噛みつぶすようにしていたんだ。(イニスの)言葉が出てくる時はいつだって、言葉が無理やり口をこじ開けて出てくるような調子だったんだ。」

ワイオミングとテキサスというのは、言語であり、場である。男を好きになるはずのない男と、別の男との、恋の顛末の舞台となる映画空間とそこでの移動に結びついている。ところで、ヒース・レジャーはオーストラリア人である。彼のこのような努力が脚本上の設定を、映画としての設定に変えるのである。そういう努力は、美術やロケ選びと同じく、映画を映画にするための大切な大切な要素なのである。こうした要素が、スクリーンの上に、何かを出現させる。この要素が鑑賞者の視覚と聴覚に直接に訴えることで、鑑賞者は感動するのである。それは《想像》ではない。それは視覚と聴覚による映画的体験なのである。スクリーンにないものを勝手に妄想して、でっちあげる《想像》をすると、全てが同じになる、という逆説を理解している人が少ないのは不幸なことだ。


話が長くなったが、本作『デモンズ’95』は原題は”Dellamorte Dellamore”で、デラモルテという男が主人公であるが、ルパート・エヴェレットが演じる。『アナザー・カントリー』(1984)でコリン・ファースとの同性愛を演じた、あの素晴らしい彼だ。

本作はイタリアが舞台で、イタリア語の看板や書類が出てくるが、セリフは全て英語である。ルパート・エヴェレットの口はもちろん英語の発音に合わせて動いている。他の役者たちも、英語を話す。しかし、ルパート・エヴェレット以外は、おそらく全員の口の動きと声が微妙にズレている。

なぜイギリスを舞台にしなかったのだろうか?あるいは、なぜイタリア人の役者にしなかったのだろうか?なぜ、ヒース・レジャーのように固有の文化を表現しようと努力した上で、国や人種や言語の垣根を超えようとしないのか?なぜイタリアは英語にこんなにも簡単に身を売るのか?なぜ日本人は役者の話す言語に無関心なのに、ヴィスコンティやベルトルッチだののイタリア映画は人間と歴史と運命を描いているなどと喜んでいられるのか?少なくとも歴史は言語だろう。その言語を無視して歴史を直観するというのは、いったいどんな誇大妄想なのか。ああ、それもこれも、映画を《想像》に委ねた結果なのだ。

本作は異様に面白い。それは、おそらくである、監督のミケーレ・ソアヴィの映像的な感性の鋭さのためであろう。少しカットが早いのは、難しいショットを回避するためなのだろうが、風を常に映画空間に導入し、圧倒的な推進力で女に突進しながら、後悔の去勢まで展開する。また、死神を現出させる美術チームの功績なのだろう。

本作はイタリアが舞台だが、イタリアであることを印象づけることを、あまり、しない。しかし、どうしてもイタリアなのだろう。ミケーレ・ソアヴィは、本作の映画空間をイタリアであると鑑賞者に体験してもらいたかったのだろう。「現代のイタリアの政治は酷い状況だ。本作の発表は、ベルルスコーニが首相になった時なんだ。本作は現代のイタリアだ。」というようなことを、後年、ミケーレ・ソアヴィは語っていた。

残念だ。だったら、やはりイタリア人に主演を託すべきだったのではないか。いや、正確に言おう。イタリア人でも、何人でも構わないが、イタリア語でやるべきだろう。しかし、本作の原作である”Dellamorte Dellamore”という小説から派生したイタリアの漫画”Dylan Dog”はルパート・エヴェレットをモデルにしているらしいのだ。だからこのようなおかしな設定になってしまったのだろうが、だったら自分で脚本を書かないとね。こういう分業というのも、映画がグローバリズムにやられる一因なのだろう。

このイタリア映画が英語であることは、スクリーンを眺めまわして、サウンドに耳をすませる、という考えてみれば当たり前なのだが、真面目〜な鑑賞をする人間には、不可解なノイズとなり、素晴らしい監督の映画センスを感じ取る邪魔になる。その点を減点した。何度か、ルチオ・フルチの『サンゲリア』(1979)を上回るのか?と思わせるショットがあったし、笑える箇所も多かったので、実に残念である。



Blu-ray。画質は良好。5.1chの音質も悪くない。
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