RK

人間の証明のRKのレビュー・感想・評価

人間の証明(1977年製作の映画)
4.3
人間の証明を果たせたのは誰か?

30年前にレイプ事件を起こした2人(刑事とヘイワード父)、
息子殺しと口封じ殺しをした恭子、
轢き逃げした岩城滉一、

誰も果たせてはいないと思うが、唯一恭子のみが、目には目を、ということで、自死を選んだあたりが、人間の証明を諦めなかった、と受け取るべきか?(他の人間は、罪から逃れ続けた=非人間、ということ?後悔と共にスラムで野垂れ死んだ父親も、非人間?)

あとちょっと理解不足かもしれないが、恭子をレイプした犯人=ヘイワードの父親ということであってるよね?そんな強姦魔と一時期でも、一緒に暮らしてたのか!(仲良さげに写真まで撮ってる)。息子が介在することで、愛が生まれた瞬間もあったのだろうか。その時の様子まで描くことは、尺的にさすがに出来なかったのかねぇ。

てかそもそもの大前提で、難癖的に考えたことがある。
証明という言葉、概念の背景には
「AがBであれば、Cということが証明される」
という法則があるはずで、
逆を言えば、もちろん、
「Cを証明するためには、AはBである必要がある」
であるはずだ。A=Bであることが、Cの絶対条件だ。
具体例として、「水の証明」で見てみよう。
 
「その物質が、水素と酸素出来ているのであれば、水ということが証明される」
逆を言えば、
「水を証明するためには、その物質は、水素と酸素で出来ている必要がある」
になる。この場合だと、その物質=水素+酸素であることが、水の絶対条件なのだ。

さて、これが今回の映画だと、どうなるか。
人間の証明、というタイトルに従うなら、
「その動物が、〇〇であれば、人間であることが証明される」
逆を言えば、
「人間を証明するためには、その動物が、〇〇である必要がある」
となるはずだ。
〇〇に当てはまるのは何だろう。人殺し(あるいは非人間的行為)をしても、反省する心を持つこと、であろうか?

いや待てよ、そもそも大多数の人間は、人殺しを含んだ非人間的行為なんて行わないはずである。であれば、この方式は早くも破綻している。グダグダ書いたが、何を言いたかったのかと言うと、人間の証明を行うのに、非人間的行為の有無を介することは、意味をなしてないのではないか、ということである。そんなもの経由しなくても、人間は成立する。それとももしかして、原作者からすると、我々はまだ人間ではないのか?(あるいは人間よりもっと高尚な存在?)殺人やレイプなどの行為を犯して初めて、ようやく人間かどうかを証明できる段階になる、ということなのだろうか。およそ納得できないが、こちらの方がロジカルではある。
RK

RK