【孤独や後悔と向き合う】
実は、邦画「異人たちの夏」より、僕は山田太一さん原作の小説「異人たちの夏」の方が好きだ。
大林宣彦監督のノスタルジックな映像や両親との場面は大好きなんだけれども、終盤の場面がオカルト過ぎる…というより、ゾンビちっくなところがなんか好きになれないのだ。
それにもっと静的な描き方の方が、日本の怪談ふうじゃないかと思う。
この「異人たちの夏」がイギリス映画として制作公開されると聞いた時に、この物語のコアな部分でもある戦後からバブルにかけての日本や、その中での家族関係を、どのように変えて描くのか興味があった。原作の実はとても大切な部分だからだ。
先般「オーメン(1976年)」のレビューで毎日新聞オンラインの記事を紹介したが、イギリス人は日本人同様に幽霊が好きなので、実は、そこは心配していなかった。
映画「異人たち」では、主人公をゲイという設定にすることによって、思いがけない余韻などもあって、趣は異なる感慨深い作品になっていると思う。
(以下ネタバレ)
ゲイであるというアダムの孤独。
アダムがゲイであることでいじめられたり、孤独であったことを理解できていなかったという両親の後悔。
手を差し伸べてあげられなかったという両親の後悔。
ハリーのいたたまれないほどの孤独を見過ごしてしまったというアダムの後悔。
思いが強すぎて旅立つことが出来ない辛さ。
逝ってしまったものも、生きているものもこうした孤独や後悔を抱えているのだ。
原作も深めて、この「異人たち」のテーマはこうしたことじゃないのか。
「異人たちの夏」は、促されるようにして両親が旅立つが、「異人たち」では、両親が自ら決意する。
そして、ハリーが自ら命を絶ってしまった後悔と向き合いながら、アダムとも向き合い……、ここからは観る人の想像に委ねられていると思うけれども、この作品ならではの味わいになっていると思う。
ただ、僕はやっぱり小説「異人たちの夏」の方がやっぱり好きだなー。