足拭き猫

悪は存在しないの足拭き猫のレビュー・感想・評価

悪は存在しない(2023年製作の映画)
3.8
あらすじから想起されるような都会の人 vs 田舎の人ではなく、住んでいる人が入植してたりあるいは別荘に永住しているということが作中で明言され、人間どうしの価値観の対立ではない。東京の芸能事務所がコロナの補助金を得るためにグランピングといういま流行りのリゾートの形に目をつけ、候補地となった人たちは杜撰な計画のせいで利用する水が汚染されてしまうのではないかと改善を求めている。

彼らのように山奥に住むこと、あるいはもっと大きく広げて私たちが地球上に住むこと自体はダメなことでは無い、というかダメだと言い始めると人類は滅びなければならない。しかし人間は他の自然に比べ圧倒的な知性と力を持っている。快適で便利な暮らしを求めていった結果テクノロジーがすごく発達して他の地球上のどんな生き物よりも好きなように自然を変えることが出来るようになった。地球のリソースを使いまくり、菌類や植物や動物(のフンや死骸)のようにその後を還元するどころか、原子力発電所の排水(川上にいる者は川下に責任を持たなくてはいけないという長老の言葉で思い出される)だったりCO2だったりと元々は存在しなかった量の人工物を垂れ流している。お互いに害を与えないバランスというものは崩れまくり、それを取り戻そうとしたら我々はせめて原始的な生活に戻らなければいけないだろう。私は地球上から人間がいなくなった方が良いと思っているが現実問題として全滅させるのは無理だ。住民がグランピング場の計画に反対しているのだって自分たちの水が脅かされるからであり、森や山全体のためではない。
高橋のノリは久しぶりに自然に触れた人にはよく見られるものなので彼に罪があるとは思えない。この時代においてテクノロジーと全く無縁で暮らすのは非常に難しく、巧の家だって電気は引かれていたしあの場所に住んでいるのであれば車は生きていく上で必需品だ。そういえばマッチングアプリもデジタルの技術だなぁ。高速を走っていてもマッチングしちゃうのね。

巧が住んでいる家の周りの森床は綺麗に整備され、枝打ちもされていることが背景に見える。それ以外の森は手入れされておらず枯れた蔦や植物の残滓が木々に絡みついている。それがそもそもの森の姿なのか人間が手に負えていない自然なのかはよく分からない。水を組んでいるところも後ろに石積みが見られ、昔は桑畑か何かに使われていて今は耕作放棄された場所だろうか。
人間がいなくなるとそこは自然に駆逐されていく。住民が避難していなくなった福島の家にはイノシシが入り込み、チェルノブイリル周辺の村は今や森に覆われている。

何回も繰り返される林を見上げる視線、最初はきれいだから映しているのかなと思ったが長く見ていくとそんなにきれいではなく、そのうちこれは動物から見ている視点なのではないか、と思うようになった。カメラの視界をさえぎられた後に巧がいきなり花を背負っているシーンは映っていない時間に何か魔法が起こったようで、その間に巧が動物か森の精霊に変身して花に出会い、我々に姿を現す前に人間の姿に戻ったように見えた。
花が草原で手をかざすのは後から考えると仲間を探しているようでもあった。でも巧と花はどっちなんだろう?
花が帽子を取って自分には角がないと言うように鹿たちに見せた直後に倒れている。小鹿の角には何かが絡みついていてキリストのいばらの冠のようなものに思える。神様とか大きな力が花を死に至らしめたのかとも感じた。そうなると巧と花は自然の側ではないということになる。巧が森に消えていく場面では森と完全に同化していたが、その後は彼の激しい息遣いが聞こえる。


地球上に住む人間のサガみたいなものを描きたかったのだろうかと感じたのだが、では力がありすぎる我々はどうすればいいのか?と問われると、各々節度を持って暮らしましょうという言葉を弱々しく吐き出すのが精一杯だ。

陽光がかなり強く映っており、気温が高めだったのか雪が緩く、そのせいで冬らしい緊張感がなくなってしまっていたり、平原の描写に広がりがないのがちょっと物足りなかった。

撮影された場所が自分が住んでいる町と山を挟んで反対側にある。この地域の鹿はどんどん増えており、なぜかというと道路の凍結を撒くために塩化カルシウムを大量にまくその塩が彼らの栄養になっており、また以前は雪が深すぎて越冬できなかったのが降らなくなったので生き延びているとのこと。
作品中の鹿は慎ましく現れるが高原では大きな群れでいることもあるし最近は人里にも降りてきて自分の職場の芝生の中庭などには大量の糞が落ちている。運転中に遭遇することも珍しくない。鹿対策として狩猟ブームが来ているようで猟師をやってますという若い人がぽつぽついたり、ジビエも焼き肉屋とかフランス料理のメニューに増えている。