マティス

エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命のマティスのネタバレレビュー・内容・結末

4.5

このレビューはネタバレを含みます

正しさを自分で考えること、正しさを自分で考えずに受け入れること


 強く印象に残った作品。いろいろなことを考えさせられた。
 折しもイスラエルとパレスチナの争いの行方に固唾を飲んでいる今、宗教の教義を行動基準の最上位に置くと、人間はこのような行為を行ってしまうという強い警告を発した作品と言える。でも、マルコ・ベロッキオ監督が発したメッセージは、ここで描いていることは決して宗教にだけにとどまる問題ではない、と言っているように受け止めた。

 主人公は、ユダヤ教とキリスト教とのはざまで翻弄された幼い少年なのだが、19世紀に実際にあったことをもとに作られたということに驚いた。
 ベロッキオ監督の作品は、「シチリアーノ 裏切りの美学」を観たことがあるだけだったが、その作品も実話をもとにした作品だった。
 両方とも、主人公が予想に反する道を歩んでいくのだが、この二つの作品に、マルコ・ベロッキオ監督が込めた思いは、少し違うように感じる。なので、監督は実話の描き方を変えている。それは、ベロッキオ監督が考えたこの二つの実話、出来事の本質の違いに起因するのではないかと思う。

 「シチリアーノ~」は、主人公のマフィアの大幹部ブシェッタが、なぜマフィアを裏切り、仲間を売ったのかの心の変遷が分かる展開になっている。
 しかし、「エドガルド・モルターラ~」では、人によってはとても大事じゃないかと思ってもおかしくない、少年がユダヤ教からキリスト教に改宗していく様子がほとんど描かれていない。エドガルドは、母と引き離される時に、毎朝、毎晩、ユダヤの教えを唱え続けると泣きながら母に約束したのに・・・。だが、10数年の後に危篤の母の前に現れたエドガルドは、母にキリスト教への改宗を勧める男になっていた。

 原作はどうなっているのだろう。気になる(こうやって本が増えていく笑)。エドガルドが改宗していく様が原作では描かれているのに、ベロッキオ監督や脚本家が敢えてその部分を端折ったとしたら、わたしは監督や脚本家に賛意を示したい。それは、このエドガルド誘拐事件の問題の本質、おそろしさと言っても良いと思うが、ある宗教とある宗教の教義を比較して、優劣を決めることにあるのではなく、人が宗教の教義に照らし合わせて正しいと思い込んでしまうと、躊躇なく悪を為してしまうところにあると思うからだ。

 人間を幸せにするための宗教が、人間を不幸せに追い込んでしまう。始末が悪いのは、やっている当事者は、自分が信じる神のために正しい行為をしていると思い込んでいることだ。
 もちろん、本人は不幸せなどと毛頭思っているわけではなく、むしろあなたは不幸せではないかと思っている我々の方こそ不幸せだと思っている。この作品で言うと、母の臨終間際に、エドガルドはカトリックの洗礼を授けようとしたものの、母に自分はユダヤ教徒として死にたいから洗礼は不要だと断られるのだが、エドガルドはそこに至っても自分の行為の愚かしさに気付いてはいない。エドガルドは母を憐れみを持って見つめた。多少の自分のキリスト教徒としての力のなさを感じていたとしても・・・。


 冒頭に、この作品が描いているのは、宗教にだけにとどまる問題ではないと書いた。
 宗教は、人が為すべき正しい行為の指針を示すものとすれば、この正しい行為というものが肝となるわけだが、ベロッキオ監督は、「シチリアーノ~」では、主人公のマフィアの大幹部ブシェッタにそれを考えさせ、この作品ではエドガルドがそれを考える様を描かなかった。

 今のこの時代、他人や団体や社会が、善意や正義を装って自分の主観を押しつけて来ることが増えたように感じる。ポリコレもその一つだし、最近ではDEIという概念が流布されている。彼らは正義のために行っていると思い込んでいる、それも強く。異論を唱えようものなら、敵と見なされる。
 ベロッキオ監督は二つの作品を通して、正しさを自分で考えることと、正しさを自分で考えずに受け入れることで引き起こされることを描いてくれたように思う。




 この作品の時代は、ちょうど明治維新の前後なんですね。ヴィスコンティが撮った「山猫」や「夏の嵐」も同じ時代。イタリアも日本と同様に激動の時代だったんだ。

 劇伴は私には合わなかった。少し抒情的過ぎた。調べてみたら、マルコ・ベッキオ監督はエンニオ・モリコーネと組んだことがあった。エンニオ・モリコーネが曲を提供していたらな、と少し思った。
マティス

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