教授

ゴジラ-1.0の教授のレビュー・感想・評価

ゴジラ-1.0(2023年製作の映画)
-
他人の好き嫌いに優劣をつけることは愚行だということは、百も承知であることは予め断っておく。
クドいようだが、これらは「あくまで個人的な見解」であることも同じく断っておく。 

それを踏まえて、至極、個人的な思想的にまず看過できない映画であった。
そもそも本作の予告編が公開された時点で「敗戦によって0になった日本がマイナスへ」というキャッチコピーやフッテージを観た時から「キナ臭さ」を感じていて、実際に鑑賞してみると、概ね「想像通り」のテーマでウンザリした。

本作の構造はシンプルで。
「敗戦」でプライドがへし折られた男性(たち)が、ゴジラという脅威が現れた際に再びその「男性性を回復する」ことにプラスして、政治や権力が「自助」を謳い、庶民たちが「特攻まがい」のやり方でゴジラを倒して「自己責任論」まで補完するというもの。
残念なことに、作中あれやこれやとアリバイやエクスキューズを撒き散らして自己矛盾だらけの「命の尊さ」を説くのだが、構造はこの一択である。

この「正論」と矛盾する「構造」の乖離こそが日本国の民度が抱える病理なのだが、本作はただただ無自覚にその構造を物語に組み込んでいる。
その「矛盾」がドラマ部分にも満遍なく浸透しているため、枚挙にいとまがないほど、セリフに矛盾が生じている。
それはラストに述べられる「これは死ぬための戦いではない」と言いつつ「特攻」と同質の戦い。
「勝てるかどうかはわからないが、やってみるしかない」というあやふやさにある。

この「精神論」でアメリカには勝てなかったがゴジラには勝った、という自信に何が残るのだろう?
それこそが近年に言われる「トキシックマスキュリニティ」の補完ではないのか?などなど疑問点ばかりが頭に渦巻いてしまう。

山崎貴監督の意図というか、本作への向かい方については、自身の脚本や、ドラマ、あるいは人物への感情が、悪い意味で「創作上の人物」に過ぎず、また物語の構造についても「カッコいい軍人への憧れ」といった抽象的なもので、歴史的な部分でどんな意味合いがあるかというところに全く関心がないように映る。
この「戦後間もなく」という時勢の設定も無邪気さは感じても、その時代を描く日本人の責務というものは感じられない。

それは本作の唯一の長所とも言えるVFXの見事さの際立つ画面の各所にディテールの雑さという形で表出してしまう。
例えば銀座の界隈に誰一人進駐軍がいない。
米軍や日本政府が関与しないというトンデモなシチュエーション。
ゴジラは大戸島で現れ、なぜ今度はビキニ環礁にいて、何度も東京に舞い戻って来るのか?という第一作から何らブラッシュアップされていない問題の放置。
銀座の大破壊の最中、敷島(神木隆之介)や典子(浜辺美波)がなぜ助かったのかという不自然さ。

簡単に言ってしまえば、映画として非常に雑なつくりであることは否めない。
そこに趣味嗜好としての「ミリタリー」や「VFX」を乗せただけの「架空戦記モノ」としての軽さは、さすがに題材として怒りを感じる。
教授

教授