市子観た方が合わせて観ている様子なので便乗してみました。
最近の流行りですかね。似通った作品が散見しているように感じます。
私は稲垣吾郎がいたって普通の考えを持ち一番、正当な事を言っていたと思います。
私の定義する普通は、予想ではありますが、80%位の人が同様に考えるだろ事。
また、特に否定することもなく普遍的に進んできた事。
本作の様なテーマに触れると、普通について半ば否定的な感覚を持たれるかも知れません。それも私的には普通。
私は一つのガイドラインとして普通を意識する事は大事だと思っています。
社会生活を形成するにあたり常識や秩序を
維持するためにも必須だと考えます。
ただし、普通とは非常に流動的な側面を持ち合わせているとも思います。
だからこそ、普通と言う概念に従う事はないとは思うんですが…。
昨今、多様性と言う言葉が乱発される様になってから、過度なアレルギー、異常な反応を感じています。
例えば、女性がシングルで生きていく人生を選択する。少し前の概念では普通でない…
親御さんが早く結婚しろとどやす。
嫌悪感を覚え、反発し生きづらい世の中だと結論ずける…。
私は、自分の決意や覚悟にそんなにも自信を持てないものかと思ってしまう。
親御さんは、自身の経験からの真摯なアドバイスかも知れない。それには子に対する心配が含まれる事も。結婚が女性の幸せと考える親御さんに対して、自身の持つ人生の価値観を説明し論破できないのは、やはり引きずってしまっているものがあるからか?
本作は、水に対して性的な意味合いも含めて異常なまでの執着心を持つ人の生きづらさ
を説いている。幅広く捉えるとマイノリティが理解されず、世の中に同調できず、ひっそりと暮らさざるを得ない悲壮感。
ラストシーンに象徴されますが、とにかくネガティブで暗い印象でした。
大多数の人が、普通と言う概念の中暮らしていると思います。それは、意識している時もあるし無意識な時もある。
でも、逸脱している部分って必ずあると思うんです。
それを自覚したとして、そんなに他の人の理解って必要でしょうか?
理解がないとそんなにも生きづらいでしょうか?そこが疑問なんです。
一歩寄って、本作でテーマにしている水への執着心への理解ってどうすれば良いのか?
彼らの求めている理解って何なのか?
どうすれば彼らは生きやすいのか?
私は、水遊びは好きですが、性的な視点はありません。でも、彼らがそうであるならば
それはそれで良いと言う立場です。
特に偏見や差別の意識を持つ様な問題ではない。普通に友達にもなれると思います。
これだけでダメな理由ってわからないかんです。
ただ、同じ趣向を持ってほしいと言うのは
無理ですよね。
LGBTQの問題も同様。
趣向としては好きではないですが、偏見はありません。そう言う人がいると言う認識でいます。つまり、人権と立ち位置は認めている
彼らが言う認められないとは誰にどの様な場面でなんでしょうか?
(ここでは既存の法律に対する改訂論は省きます。私的には別問題と思っています)
私も自己満足的な到底人に理解されづらい趣向があります。私なき後、私が残す物の一部は単なるゴミでしょう。ビンとか缶とかその他もろもろ雑貨は特に…。
ただ、そんな趣向を人に吹聴して生きたいとは思いませんし、例えば機会があればコンコンと話しますが、好みの女性のタイプも日常的に発信していたいとは思いません。
政治観、経済感、宗教感なども同様。
私は、潜在的な趣向については、割と理解ある立場だと思います。
もし、それが絶対的に譲れない物であるならば…。
社会生活は大多数の思い感じる普通と言う概念で成り立っている事。
自身がそこから逸脱していると言う自覚を持つ事。
差別化しながら自分の立ち位置を、どの様に発信し作って行くか考え行動する事。
そこを頑張らないと、批判や不満、愚痴だけの人生になってしまうと思うんです。
私にとっては、水に性的な要素を見出す趣向は全然問題ない、「へーそうなんだ」程度。
むしろ、性格が消極的すぎて暗い方を懸念します。言い換えるとイヤかも…。
類似した映画も世の中も論点を絞りきれてない様に思えてなりません。
このレビューもマイノリティよりかも知れませんね。昨今の風潮を思うとそう思います
私はその自覚はありますので、日常で機会あれば、同じ論法で議論する事もやぶさかでないと思っています。
本作でも触れられますが、犯罪に属する趣向に関しては、いかなる理由があっても断罪すべきです。それもまた問題が違います。
いかなる人も自分の思う幸福に指標をたて
ある意味、他の視線など気にせず進むのが、幸せを感じる術だと思います。
最後に論点が微妙なままで多様性と言う言葉が一人歩きすると…
多様性=無関心になってしまうのでは?
と危惧してます。
ガッキーも暗かったなぁ。