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ジャバーウォッキー 4Kレストア版のdm10foreverのレビュー・感想・評価

4.1
【パイソンズじゃないほうのお話】

「dm的映画祭 in Obon」の3本目。
ユナイテッドシネマ札幌から徒歩20分ほどかけてサツゲキまで劇場を移動して鑑賞したのがこちら「ジャバーウォッキー」でした。
まぁこれはきっと好き嫌いがぱっくり割れそうな作品ですね(笑)
個人的には超大好物ですが・・・。

一部熱狂的なファンからの熱烈な支持を受ける鬼才テリー・ギリアムが手掛けた初の単独作品が、約半世紀の時を経て「4Kレストア版」としてスクリーンに蘇る。
「空飛ぶモンティ・パイソン」のTV放送が終了したのが74年で、映画「モンティ・パイソン&ホーリー・グレイル」が75年。
その後に製作されたっていう流れ(経緯)もこの作品のテイストに色濃く反映されているような気がした。

パイソンズの中では唯一のアメリカ人(後にアメリカ国籍を放棄してイギリス人にはなっているけど)として参加していたテリーは、あれだけ個性的なコント集団の中にあって、あえて裏方とも言える「アニメーション」を担当していた(もともとの職業がアニメーター兼イラストレーター)。
ただ、彼が作り出すアニメーションは一度見たら忘れられないくらいに強烈なインパクトがあって、「空飛ぶモンティ・パイソンと言えば・・・」と連想する人も多いくらいに今でも脳裏に焼きついている。

彼のアニメーションにはいくつか特徴があって、既存の写真や絵画と自分のイラストを配合して、誰も思いつかないようなシュールな世界観を作り上げてしまうんだけど、そこには「古いものが新しいものを食い尽くす」だったり「美しいものを貶し倒す」など、常識や定説をひっくり返したり全部叩いて潰したりと、常に「新しい視点(角度)」を与えてくれるような刺激的なものが多かった。

「空飛ぶ~」の初期の頃なんかは、「シュールなコント」と、合間に挟まるテリー・ギリアムの「独特の棘のあるアニメ」の相性が抜群で、すっごくバカバカしいものを見ているのに何故かとても崇高なものを吸収したかのような錯覚にすら陥る。
モンティ・パイソンはそんな中毒性の高い「危険な番組」でした。

という中にあって「モンティ・パイソン(パイソンズ)」におけるテリー・ギリアムの存在。

お互いにもの凄い高度なインテリジェンスを持った「5人のコメディアン」と「1人のアーティスト」。
彼らが起こした化学反応は、まさにコメディ界にノーベル賞クラスの革命を起こした。
しかし、徐々に「マンネリ」や「メンバー間の軋轢」などが表面化していくのと同時に「モンティ・パイソン」も失速していく・・・。

この作品が作られたのは、まさにその頃だった。
「空飛ぶモンティ・パイソン」が終焉を迎えながらも、未だに付いて回る「パイソンズ」の威光。
そこで湧き上がる「自分が作りたいもの」を「自分がやりたい形」でやってみたいという苦悩。
恐らくこの作品の前に公開された「~ホーリー・グレイル」は、演者も含めて「モンティ・パイソン」として作ることを義務付けられていたような作品でもあったんだと思う。
特にグレアム・チャップマンやジョン・クリーズみたいなクセの強い俳優(共に元パイソンズ)を使えば、必然的に「モンティ・パイソン色」に染まってしまうし・・・。

っていうところで、この「ジャバーウォッキー」なんですね。
今作でもマイケル・ペイリンが主役だし、ちょいだけどテリー・ジョーンズ(共に元パイソンズ)も出ている。
だけど、どこか今までとは違う。
「モンティ・パイソン」でよく見た『ありそうでなさそうな世界観』っていう雰囲気なんかはよく似ているんだけど、でもやっぱりどこか違う。
それは「善い」「悪い」という次元の違いではなく、色や匂いのようなそれぞれの個性としての違いというべきか・・・。

直接言葉や行動で攻撃することも辞さないという前衛的なスタンスが「モンティ・パイソン」なら、映像や物語は真っ直ぐ作っているのに、いざ行き着いてみた場所は皮肉たっぷりのオチが待っていたというのがテリー・ギリアム。
だからといって彼が保守的というわけではない。
むしろ、パイソンズを経験した人間だからこそ出来る『脱パイソンズ』的な攻撃であり、風刺であり、シュールであったと思う。

物語自体は「怪獣の恐怖に恐れた国王が怪獣討伐のために勇者を募って、結果一人の勇者が怪獣を倒してお姫様と結婚し、国にも平和が戻りましたとさ・・・」っていうおとぎ話をずっとやってるだけなんです。
でも、この映画の主人公は実はその物語自体の登場人物ではなくて、偶然そのストーリーの横を歩いていたモブのような人物だったんですね。
富にも名声にも一切興味がなく、ただただブ○イクな上に性格まで腐っているグリゼルダという女性との結婚を夢見るデニスという、本当になんの取り柄もないような青年が「あれよあれよ」という間に国家存亡の一大事に巻き込まれ、いつの間にかステージのど真ん中でスポットライトを当てられてしまったというお話。

王道の童話やお伽噺で言えば「名もなき青年のサクセスストーリー」として、やんややんやの拍手喝采のハッピーエンドにすらなるこの物語でも、当の本人にしてみたら「知らないうちに家を追い出されるし、誰も助けてくれないし、好きでもないお姫様に言い寄られるし、グリゼルダ一家を助けてあげたのに貧乏人だから相手にしてもらえないし・・・」っていう、ありがた迷惑な話でしかない。

なのに自分の知らないところで動いている世界は、偶然に偶然が重なって、気がつけばデニスが怪獣「ジャバーウォッキー」を倒したことにまでなってしまう(たまたま持っていた剣に勝手に怪獣が刺さってくれた)。
ようやく開放されたデニスがヒーローになっているのを見て、コロッと態度を変えるブサ○クなグリゼルダ。
それでも嬉しいデニス。

・・・でも、怪獣を倒した勇者は「国の半分の領土と美しいお姫様を手に入れることが最高の栄誉」が世の常人の常であり、もちろんこの国でも一般的であるため、強引に「世界が求める勇者のハッピーエンド」として祀り上げられてしまう。
最初から最後まで何一つ彼が望んだ結末ではなく、ただ一人、当の本人にとってバッドエンドであることは誰も気にも留めず・・・・。
ただ「物語ってそういうものだから・・・」という誰かの幸せを押し付けられるかのような違和感。

こういうオチの付けかたって、モンティ・パイソンではちょっとなかったかも。
似たようなことはやったかもしれないけど、きっとパイソンズならもっと下品にオチをつけた気がする。

物語や世界観そのものをフリにつかってしまって、「世の中の期待」と「期待通りの世の中」という双方向の物語を1本でやってしまうあたりはテリー・ギリアムの芸術的な感性の成せる技だったのではないだろうか。

そんな人たちが集まって「真面目にバカをやる」っていうのがモンティ・パイソンの真骨頂だったもんな・・・。
きっと、名前は知らなくても顔を見たら「え?この人もそうだったの?」っていう衝撃を受けます。
好き嫌いは別れる作品だと思いますが、モンティパイソンの世界観が気になった方は、ちょっと覗いてみると面白いかもね。
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