午前十時の映画祭にて4Kデジタルリマスター版を鑑賞。
個人的には待望の4Kレストア版の鑑賞だった。
初見は東宝のDVDだったので画面もお粗末だし音声も聞き取れない。日本語字幕を出してようやく最後まで>>続きを読む
LINE上での鑑賞という大前提を理解しつつ、率直に言えばスタンダードな横長画面で見たかった。さらに企画意図に敬意を払いつつも全4話(それぞれの世界線の伊藤万理華主演)のオムニバスドラマとしてまとまった>>続きを読む
1987年「ビートルズ復活祭」にて鑑賞。
当時私は高校2年生。前年にビートルズのアルバムが初CD化され始め再評価の機運が高まっていたはず。
世代的に「レット・イット・ビー」といえば「悪霊島」を真っ先>>続きを読む
(公開当時に視聴)
本や映画、音楽というカルチャーってある時代まではかなり深刻に「私」を「誰か」に伝える手段だったと思うのだ。
この作品も御多分に洩れず、とある女に「この映画を見ればあたしが恋愛に>>続きを読む
公開当時、あの志村けんが「8時だよ全員集合」でネタにするほど社会現象となった記憶のある映画だけど、思い返すにどうにもあの現象は薄っぺらくこの作品の上っ面だけを称賛していたようにも思う。
とはいえ、本>>続きを読む
男連中はクズというより「男社会の落伍者」なのではないだろうか?と思った。男は集団の中で必ずしも成熟しない生き物だが、集団の中にいれば何だかんだ言っても忙しく働くものだし、貫禄なんかも出て来る。で、それ>>続きを読む
ヒーローとは理屈を超越した存在。
絶対に死なないし、なんでも察する。これが中途半端だと見る方も萎えてしまう。やるならとことんご都合主義で貫いてほしい。
そんなヒーローへの期待をこればかりも裏切らない>>続きを読む
「雷蔵は美しすぎるんだよ〜」かのハダシ監督がそうこぼすのも納得の市川雷蔵の決まりっぷり。三船敏郎、勝新太郎、市川雷蔵この3人が同時に輝いていた当時の日本映画界ってどんだけ勢いがあったんだろう。。。
そもそもが、本作の主題歌を歌っているシンガーソングライターのKarin.サイドから伊藤万理華さん本人に「楽曲を含めて、MVだったりのプロデュースをお願いします」とオファーを受けた事から始まったプロジェ>>続きを読む
幸いなことに私の親戚には戦時を殊更悲惨に語る人がいなかった。この作品を観た年の盆に改めて郷里仙台の母に問うても「そんなに辛くはなかったよ(空襲は免れているので)」と言っていた。一方、釜石の叔父は艦砲射>>続きを読む
現実逃避ってその逃避対象がどれだけ素晴らしくて非の打ち所がないとしても、やっぱり心のどこかに罪悪感が残ってしまうもの。「これは映画だぞ、現実に戻りたまえ!」なんて。
本作がマスターピースである理由は>>続きを読む
体制に抗う姿勢、規律を掻い潜った集会、カリキュラムを度外視した授業。それらの象徴的なエピソードによって自由讃歌のようにも思えてしまう本作であるが、それらのどれも(誰もが)が決して小さくない代償を負って>>続きを読む
「狂気」が漂う場所ってどこなんだろう。それは多分「紙一重」と言われるように何かと何かの境界線あたりなのではないだろうか。そしてそこへは簡単には辿り着くことは出来ない。そこは時々芸術なんて呼ばれたりもす>>続きを読む
あらすじは「野伏の搾取に苦しむ農民が蜂起し雇った七人の侍達と共に野伏を退治する」だけ。難しく考えることはないんです。
しかし、そこは黒澤明このシンプルなお話を「ステーキの上にウナギの蒲焼きを載せ、カ>>続きを読む
黒澤版と同じ脚本である。
図らずも脚本がいくら良くても良い映画として成立させるには限界があるという事を証明した作品として後世に残るであろう。
額を出した総髪の髷すら結えないのなら、何故、織田裕二は>>続きを読む
カート・コバーンの悲劇は、最終的に自己を支え切ることができなくなるような過酷な体験を積み重ねて来たその人生とは裏腹に、表現者としては非常に明快な作品を作ったという歪さにあるのだと思う。
そんな事を再>>続きを読む