あさ

オッペンハイマーのあさのレビュー・感想・評価

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
3.5
「関心領域」とはそれ自体がinterestingな言葉だなと、本編を見ながら何度か思った。
『オッペンハイマー』が世に放たれた時に思っていたことは「きっと原爆の父を描きながらも日本のことは描かないだろう」という失望感。現に観てそう思ったものの、そこに対する不満は想像よりも大きくならなかった。(小さかった訳でもない。)それ以上に、確かに違う視点を得られた気もしているからだ。悔しいが、私が映画を見ることが好きだった理由を少し思い出してしまったからだ。

再来週にも『関心領域』が公開されるが、オッペンハイマーもまたアメリカの「関心領域」を描く映画だった。アメリカが見た第二次世界大戦。視点は必ず偏る。

原爆が落とされても、ロスアラモスの人々に惨事は届かない。米国全土にもラジオの電波では届かない。地獄は、目にしないと分からない。数字を聞いても人間の想像力というものは不十分だ。
オッペンハイマー博士は、呵責から彼の足元に被爆者の遺体を見た。爆風で剥がれ落ちていく皮膚を。実際の彼があのタイミングでは"想像"もできなかった惨事を。誰もが原爆を落とさなければ知らなかった惨事。黒板の上の計算では一生、到達できなかった悪夢。
あの幻覚は「映画」としてせめて必要な演出だったと思う。その後に原爆による被害報告を米国人が聴く場面があったが、そこでは悲惨な映像は視聴者の我々には伏せられたまま。被害に対する描写はコレが効果的だったのか、「せめてコレくらい映しとかないとな」程度だったのかは、正直、一視聴者としては後者なのかなと感じてしまうモノだったが。

何かというと、今日、2024年を生きる私たちが見る『オッペンハイマー』という映画では、60年前に生きた大戦下の米国人の視点を追体験することになる。歴史から進んで視点を得るというよりは、当時の視点まで「逆行」と「退化」をして視点を手に入れるのだ(ここだけは面白いと思った)。ナチス映画ではナチスの悪行やユダヤ人の惨状両者が描かれることが多いが、この映画はあくまでも米国人一方の視点だ。
それが興味深くもありながら、心のどこがでクリストファー・ノーランという名のある監督が、そこに限った視点で映画を撮ったことに対して残念な気持ちも否定できない。私が日本人であることも起因している。しかし、戦争は今日も起きているから。二項対立な感情と戦う余韻があった。

さらには今作で描かれる「戦争」は戦後の口論が主題ですらあったから。それはそれで何度も言うけど興味深かったし、地獄絵図だった。国への忠誠は脆い。権力者に嫌われたら終わる。戦争が終われば、また次の戦争が怖くなる。武器を持てば、さらに疑念が膨らんでいく。「人間は単純だ」という言葉があったが、人間は何よりも残酷だ。同時になんだか、こんな形でかの大戦を振り返る映画を作ることは大変狡いなあとも思うんだがね。

人はずっと敵を探している。ナチス対策で講じられたマンハッタン作戦、原爆の開発。次第に「これだけお金を投じたのに」「人時を投じたのに」「使わないと!」という形で連鎖していく悲劇。もうナチスという敵は居ないのに、必死に敵を探している。
しかし、日本人としてもね、民間人の命が奪われたことを何よりも奪うのと同じくらいに、あの時の日本は原爆を落とされないと止まらないほど愚かだったようにも感じている。この映画では一貫してナチスや日本という「外」の世界が映されないから伝わりにくいけれど。(=戦時中のアメリカ人の視点だよね。)映画だから描けたはずだけど、何度も言うけどそこが悔しくも今作では生きた描き方だったようにも思う。(だからと言って、やはり多くの人がこの映画を見ることを考えると更に視野を広げて戦争自体を深掘りして欲しかった気持ちも否めないのだが…。感情の拮抗!)ノーランはどうしても化学とか科学者、宇宙への愛がデカいんだろうなというのも勝手ながらに思ったり。

人に炎の力を与えたプロメテウスだけではない。きっと人間という生き物が地球に生息したことが大罪だ。だから私はいつもアダムとイブを恨んでいる。きっとこの地獄を繰り返して、世界が滅亡するまで人は争いを辞めないんだから。最終着地はそんな感じだけど、とりあえず『関心領域』が楽しみだなあと思う。人類、もうずっと終わりだな。(遠い目)
あさ

あさ