みや

オッペンハイマーのみやのレビュー・感想・評価

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
4.5

例えば、独立戦争の時に核兵器開発の技術があったとして、アメリカはイギリスに、またはイギリスはアメリカに原子爆弾を落としただろうか。
同様に、南北戦争の時に、核兵器開発競争をしていたとしたら、南部は北部に、北部は南部に原子爆弾を落としただろうか。
もっとも、落とすのは軍や政治家だとして、開発者たちはそれを肯定しただろうか。

この問い自体ナンセンスなのだが、原爆を落とされた国の人間としては、オッペンハイマーの演説に拳を突き上げて喜ぶロスアラモス研究所の皆さんに尋ねてみたいのだ。

とはいえ、原爆こそ使われてはいないが、今だってパレスチナは圧倒的に蹂躙されているし、それもイスラエル側からしたら正義なのだから、相変わらず人間の欲望と理性や、善悪というのは大いにあやふやで、個々の信念によって変わる相対的なものであり続けているということだろう。

時折の、ものすごい音圧で腹まで響く爆裂音と、映画が始まってから休むことなく続く、低音の響きが身体にまとわりつく不快感を感じながら、誠実につくられた映画だと思いながらも、やっぱり大量殺戮兵器のやるせなさについて考えてしまった。

今なお、さも当たり前で、正しいことのような顔をして語られる「核抑止論」も、核開発を進めたい者の詭弁に過ぎなかったことが描かれるが、だからといって、オッペンハイマーたちが開発をやめても、きっと遅かれ早かれ、誰かがこの兵器を完成しただろうことも想像させられた。
そして、天才的で科学的な発見発明の陰には、数多くの人々の極めて人間的な欲望と思惑が蠢いてることも。

人類が手にしてしまったこの力をどうしていけばよいのか、今も重い問いが残されていることがこの映画で改めて明らかになり、それを観た者達に投げかけられた思いだ。

決して、原爆をつくり落とした自国を弁護するような映画ではなかったことは指摘しておきたい。また、アメリカ国民にとってJFKというのは特別な存在なのだなということに気付かされ、とても興味深かった。

<追記>
他のサイトで、私のレビューが、アメリカ批判と受け取られてしまう可能性を指摘していただいたので、少し追記したい。

「原爆を落とされた国」という書き方をしているので、アメリカと日本の二項対立のように思われるかもしれないが、そんな国と国のどっちが正しくどっちが間違えているなどというつもりは毛頭ない。(意味もない)

NHKスペシャルもリアルタイム視聴していたので、原爆開発の状況は知っているし、特攻を作戦として仕掛けるような軍部に対し、異論を唱えられない(唱えない)民衆が支えていた日本が原爆を先に開発していたら、間違いなく原爆を落としただろうと思う。
しかもアメリカは、自国の若い兵士たちをなるべく死なせないという大義名分は掲げており、国のために死んでこいと若者をそそのかし、挙句に今現在もそれを美談として奉る日本の方が余程おぞましいと思っている。

その上で自分がレビューで問いたかったのは、「当時の日本人は人間として認定されていたのだろうか」「今のパレスチナの人々は、人間と思われているのだろうか」ということ。そして、「いや、だってそれには理由があって…というならば、その理由は本当に誰がどう見ても揺るぎないものなのか」ということだ。
もちろん、誰がどう見てもという絶対はなく、相対的であるのは、上記で書いた通り。その理由が力関係で決定されてしまう状況がまだまだ多いことを、とてもやるせなく思っているし、この映画を観ても思った。
つまりは、私自身は、マスとしての力関係を、現実主義といった捉え方で無自覚に肯定するのではなく、一人一人が持つべき考える力をきちんとつけて、人権に根差した公平公正な世の中を目指したいと思っているに過ぎない。だから、過去の誰かを批判して気持ちよくなるつもりもないし、それよりは自分を振り返る糧にしたいと思っている。

もとレビューにも書いたが、映画自体は、「愚かな我々人間が持て余す巨大な力を、どのようにコントロールしていけばよいのか」という重い問いを、観た者全員に投げかけていると私は解釈している。
なので、矮小化された議論に巻き込まれてしまわないよう、私も気をつけたいと思う。
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