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小さなスナックのotomisanのレビュー・感想・評価

小さなスナック(1968年製作の映画)
3.9
 奈々と弘のためにパープル・シャドウズが新曲を披露してくれるという。この奈々が実はひとの妻で、彼女の一家には命綱だという事なら「15で年老いた」マルグリットのラ・マン記が思い出される。
 Mが倍は年上の異邦人との仲を深め宗主国仏人社会と溝を深めるのに対し、奈々は夫昌也の紳士然とした無欠感のなにを嫌って弘との交際に縋るのだろう。意外にも?実は弘以外誰も奈々の事実を知らされてないのだが、弘の一党は誰も二人の仲に水を差さないのに、勝手に壊れてゆく奈々の寄る辺なさを物語が十分拾い上げていないように感じる。それは、弘の根無し草な身の上についても同様だが、GSヨイショ映画として産まれた宿命だろうか。しかし、ジュディはセリフに専念させ、PSもまんまと添え物に納めて、やりたい事の片鱗は示した監督の意欲を買いたい。

 では監督の目指したところとは何だろう。ちょっと浮世離れした若者たちの中で、稀な身の上、金持ち紳士の思われ者、奈々と裕福そうだが不確定性存在な弘が不本意と想像される身上を奈々は逃れるように、弘は順応するように暮らしていく。ただし、弘は粘っこく奈々を触手で捉えて離さないという、'68年の時節とは正反対気な静かな解放闘争を仕掛けるのだが、ドラマの時間いっぱいのため打ち切りましたと制作側を難ずるように奈々の事件現状写真一枚を外の我々だけに叩きつけて弘を世間に放り出してみせる事に、やっと掴んだ確かな奈々を失った事に気付いたのちの弘がどうなってゆくだろう?と思わせる。これだろうか?

 やって来ない奈々を待ちあぐねて夜更かしの耳鳴りを遮るもののない街の明け方、ふと余所見をさせる所在なさこそ最悪なその日をまだ気づかない弘の昨日までの終わりと告げるようだ。プラハでは兵乱、太平洋では水爆、東大では立て籠もり、半世紀経って見れば年表に一行、当時でさえ佐藤政権の物価高にも及ばない変事のおまけにもうひとつまみな奈々の事件があっけなく通り過ぎてしまい、弘より一足先にこの疎外感、空漠さを押し付けられた我々は弘の余所見の隙に物語すべても手放さざるを得ない。

 合法であろうと不安定な事は不法な申し立てであれ自然な成り行きには敵わない。しかし、申し立てをリードする人間が強くとも、既得権者との中に挟まれ引き回される者は一番弱い。そこに事件が生まれて物語も一場出来上がる。その事件の供物が奈々で、物価高には庶民で、水爆はいつでも誰相手でもOK、ワ条約機構軍は既に、全共闘も死体の山を作るのが間もなくで、弘もショッカーの墓標をやがて建てるようになるが、こいつはちょっと違うなーと思いつつ払拭しきれないで困る。なんだって今のままではいない。その大昔、儲かる人間に金が回る世間の隅っこで小さな火が付きましたと言い捨てた監督のささやかな異論のようだ。
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