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マリとユリのnetfilmsのレビュー・感想・評価

マリとユリ(1977年製作の映画)
4.3
 メーサーロシュ・マールタ映画にしては珍しく(と言っても5本しか観てないが)、映画はアヴァン・タイトルの時点で2つの事件をヒロインに投げ掛ける。1つは工員寮のリーダーを務めるマリ(マリナ・ヴラディ)の前に、過去に3年間ここで労働経験のある工員が戻って来たことと、もう1つは母親の死である。のちに自分の人生を破滅させるような女の登場と、離れて暮らす偉大なる母性の消滅とを鮮やかに同時に描いたかと思えば、葬式から帰るマリに対し、工員の1人ユリ(モノリ・リリ)が2度目の規則違反を犯したという報が入る。その内容は、子供の入場を認めない寮の部屋の中に実の娘を一晩泊めたという信じられないような規則違反である。率直に言って何という色鮮やかなメロドラマの運びだろうか?ここで登場する女性たちのバトンは様々な世代を包括するように入れ替わり立ち替わり立ち現れ、主人公マリの神経を引っ掻き回すのだ。ユリの部屋に呼びつけられたマリはその場で直属の上司であるマリに反論する。確かに今の世界線なら、労働者の子供たちを遊ばせておくキッズルームの併設は母親にとって一番重要な条件かもしれないが、当然77年のハンガリーにそんな先進的なアーキテクチャーはない。おまけにユリの亭主ヤーノシュは酒浸りで、おちおち預けておける人間ではない。いきなり『笑ってはいけない』の蝶野ばりのフルスィング・ビンタには驚嘆したが、その後マリは驚きの決断をすることになる。

 『アダプション/ある母と娘の記録』で観られたように、メーサーロシュ・マールタの映画においてはしばしば身分が上で、歳も行ったメンターが不幸な女性に自分の空間の一部を分け与える。このことは彼女たちが疑似家族となることを暗に示唆するのは間違いない。工場寮のリーダーであり、本来なら全体の規範を守らなければならない彼女の判断は、いずれ親会社に知れることなど承知の上で、マリはユリの年端も行かぬ娘の身の上を本気で心配する。何か女性同士のシスターフッド的な奇妙な連帯といえば極めて今日的な応答というか問い掛けなのだが、77年にこの情緒を地で行く作品がハンガリーで撮られていたことに私は静かな興奮を覚える。恋愛の非対称性はそのまんま結婚の非対称性にもトレースされ、モンゴルへ出張に行くマリの夫は部屋で共同生活をするユリに対し、あからさまな嫌悪感を抱いている(ここに登場する夫は主人公マリナ・ヴラディの実際の夫でもある)。対するユリの夫もアル中で精神的にも浮き沈みが激しく、情けない自己中心的な破壊者なのだが、マリは彼に嫌悪感を示さないばかりか、ユリの旦那の自由奔放な振る舞いを鏡とし、彼の楽観的な言葉の中から、結婚という型に縛られるばかりだった自身の人生を静かに呪うのだ。

 「結婚」や「出産」という旧態依然とした型に縛られず、1人の男をシェアする2人の自由奔放で奇妙な関係は、フェミニズムに寛容ではなかった時代の細やかな抵抗に他ならない。とはいえアルコール依存症治療プログラムのぞっとするような描写には『ナイン・マンス』の出産場面と同じくらい心底、唖然とした。ラストにいきなり異議申し立てをするのが娘というのも本当にびっくりした。しかもこの子役の女性は80年台のメーサーロシュ・マールタの分身として、モノリ・リリ以上のミューズとなったと聞いて、これは来年第2回もあると見た。あとは台所でのフライパン投げは東欧映画史に残る屈指の名場面に違いない。今回のメーサーロシュ・マールタ映画祭でどれか1本選ぶとしたら間違いなく今作で、次点には『ナイン・マンス』を推す。この2本はハンガリーの当時のフェミニズムやメロドラマの状況を知る上で絶対に欠かせない。どういうわけか今作だけが1週間遅れて封切られたが、今回のメーサーロシュ・マールタの目玉は間違いなくコレ。
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