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スプリーのotomisanのレビュー・感想・評価

スプリー(2020年製作の映画)
4.1
 おもしろい事に小学生の多くが将来ユーチューバーになりたいと言い出しているそうだ。ちょっと前までお菓子屋さんとか野球選手とか具体的な仕事がわかる話しを子どもでもできていたのにユーチューバーではただ自営業で暮らしたいといっているようなものだ。一体ユーチューバーと名乗ればネタが天から下りてくるとでも思っているのだろうか?
 恐らくそうなのだろう。例えば「スプリー」の主人公、カートもベビーシッターを振り出しに今は相乗りタクシー「スプリー」のドライバーをネタの宝庫のつもりでいたのだろう。
 世間は間もなくAIとロボットが人の仕事をあらかた引き継いでくれるようになり、今の小学生の多くは大量生産の現場や事務管理職からも不要とされ自ずと自営業?自由業?に向かわざるを得なくなるのだろう。だから、ユーチューバー、中身は何でも、できることならOKとなる。いや、手に職を付けるなど思いもよらない彼らに何ができ、なにをユーチューブできるだろう?政府は機械にできない仕事、創造的で革新的な何かとかいうのだろうが、産業分類にも載ってないようなそんな業種を誰が発見してくれるだろう。ユーチューブ化された事象の産業別?主題別大中小分類細目を語れない小学生が将来どんな新業種発明をしてくれると思うのか。

 「スプリー」のカートはその答えとして、発明ではなく憚り多くて誰も手を着けなかった殺人ライブに活路を見出す。いや、活路とは正しくあるまい。「ひと」という言葉が生まれて以来ずっと慎重を要して来た「殺人」を「いいね」とフォロワー数稼ぎのために手掛けようと云うのである。未遂ですらカートには明日さえないかも知れない。それでも犯す覚悟がなんであるか、この映画はきれいにパスしてかかり、むしろ、その殺人の手口の陳腐さ事件をライブするに足る要件の無理解に焦点を当てて捉えているふしがある。その結果彼は何年この世界でやってるのかと馬鹿扱いされるが、彼はそれでもまだ分からずネット有名人の尻馬に乗る事ぐらいしか考えられない。
 カートをここまで惨めに描く理由はおそらく、自営という事の基本としてどんなヒトがいて誰から何が求められるだろうとマメに気を働かすところが足りないと世間を把握できないという事である。それに端を発していればそもそも殺人がカートのテーマになっただろうか?

 殺す事が生きる術なのは仕方がない。常食の牛や象、敵なら人でも殺すのは仕方ない。しかし、敵なら宥和共存、獲物なら資源管理のため殺す量を減らすのも道だったはずである。対して、殺す事についての嗜好性が生まれ趣味的に洗練されてゆくのはヒトならではだ。殺す事が戒められるにつれ世間から隠れた趣味が高じ、やがてカート自身の殺される劇的展開までもが彼の殺しの稚拙さ奥手ぶり、ハプニング以外買えるところのないという対照性とともに弄ばれるようになる。そして、カート殺しに一役買った格好のジェシーは労せずしてネット卒業の社会派有名人、自身でネットに関わらなくとも誰かが彼女を吹聴して回ってくれるセレブに成り上がる。こんな彼女だからこそネット上に生息する長者、大企業も進んで庇護をくれるだろう。

 まさに一将功なって万骨枯るである。気がふれたらしいカートひとりのために何人死んだか知れない、あるいは、銃を乱射だ誰でもいいからとカートのように気がふれてしまう者が何人出てくるだろう?それとも、カートは気がふれたのではなく誰とも変わらぬ合理的判断でみんな死んでも差し支えなしとなったかも知れない。それもこれも気持ち悪い。しかし何より気持ち悪いのは、そんなカートもジェシーに触れて二人の結合がカート自身の生を回復する縁となると思いこんだ死の間際であろう。カートはやはり生きたいのだ、死地を求めるようにしながら何度も生き延びて、その命強さをやはり生かしたく、ネットの勝者ジェシーと結ばれて最強人類を謳いたいのである。したがって、それを否認するジェシーの世間での突出と冥界に沈みいつか伝説的妖怪と崇められるだろうカートの同じ「スプリー」で物語られる事がまだ生身の人間であったふたりの化ける前、彼らも人間だったと伝える追悼のように思えてくる。
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