シゲーニョ

ミナリのシゲーニョのレビュー・感想・評価

ミナリ(2020年製作の映画)
3.9
劇場で実際に観るまでは、「ヴィンセントが教えてくれたこと(14年)」とか「愛しのグランマ(15年)」のように、偏屈で型破りなお年寄りが、一風変わった問題のある一家の前に現れ、色々とかき回しながらも結構大事な教えを説き、挙げ句の果てに「みんな、元気を取り戻す!幸せになる!」、そんなファミリー系コメディ映画だと思っていたのだが…。

本作「ミナリ(20年)」は、1980年代のアメリカを舞台に、カリフォルニアの大都会からアーカンソー州北部にあるオザーク高原に移住し、農業で成功しようとする、韓国人の移民家族を描いた物語。

まぁ、一家の大黒柱ジェイコブ(スティーブン・ユァン)が、妻モニカ(ハン・イェリ)にちゃんと説明せずに、長女アン(ノエル・ケイトー・チョー)と7歳の息子デヴィッド(アラン・キム)、家族全員を無理矢理連れて、勝手に農家を始めてしまったことがいけないのだが、な〜んもない田舎を目の当たりにした妻とケンカが絶え間なくなるのは至極当然で、「すぐに引っ越したい!」とガナリ立てる妻を、ジェイコブはソウルに一人残したモニカの母(ユン・ヨジョン)をアメリカに呼び寄せることで、どうにか怒りの矛を収めさせる。

しかし劇場での初鑑賞時、なぜモニカが母を呼ぶことで妥協したのか、その理由が暫く分からなかった。

たしかに…序盤で、モニカの「こんな片田舎じゃ、ベビーシッターもいないし、子供たちに友達が出来にくい」という台詞があるように、夫は野良仕事、自分は孵卵場の仕事(=ひなの雌雄鑑別)に日々追われ、このままでは幼い子供たちの面倒もままならないと考えた結果、韓国から老いた母を呼び寄せて、生活を立て直そうと試みたように見える。

ところが、デビッドたちから「おばあちゃんが、おばあちゃんらしくない」と言われてしまうように、ソウルからやって来たモニカの母スンジャは、アメリカ生まれの7歳の子供に「今から覚えれば強くなる」という理由で花札をプレゼントすれば、子供相手に勝てば「ザマアミロ!」、負ければ「こん畜生!この野郎!」と悪態をつき、かなり大人気ない遊び方をする(笑)。

また、親切心で甘栗の皮を剥いてやろうと、一度口の中に入れ、歯で割った後、中身を吐き出して差し出せば、受け取るデビッドは当然ドン引きで不快な顔…。

家の中にいる時は、男物のパンツを履いて、暇さえあれば「プロレス中継」をTV観戦。

同じ部屋で寝ることになったデビッドは「おばあちゃんが韓国臭くてイヤだ」と駄々をこねるが、姉のアンからは「アンタ、韓国に住んだことも、行ったこともないでしょ!?」と正論をブッ込まれる…。

結局、デビッドに「本当のおばあちゃんならクッキーを焼いてくれるし、下品な言葉を使わない!」と言われる始末で、モニカの「片田舎に来たから、子供たちに礼儀が身につかない」というおばあちゃんを呼んだ理由、その思惑通りになかなか事が運ばないのだ。

だが2度目の鑑賞時、ジェイコブが長男である責務から、これまでカリフォルニアやシアトルで稼いだお金を韓国で暮らす両親に仕送りしていたことで、片や朝鮮戦争で父を失い、一人暮らしの母に何もしてやらなかったことを悔やむモニカが、フェアではないと不服に感じていた事が判明。
その埋め合わせをすること(=モニカの母をアメリカに呼ぶこと)で、引っ越しを断念、妥協させたことが示される。

さらにしばらく観続けると、話し相手のいない妻モニカの心を癒すために、ジェイコブがおばあちゃんを呼んだことが分かってくる。

稼ぎの見通しが立たない、韓国野菜の栽培に明け暮れるダンナのお陰で、モニカは休日も返上して日中は懸命に孵卵場で働き、朝晩は子供たちの世話。心が休まる暇など無く、愚痴を聞いてくれる相手もいない。

そして、重要なのが、モニカが敬虔なクリスチャンであるということだ。
自宅のリビング、その壁には十字架がかけられ、その横には野原で羊を牧するキリストの絵が飾られている。たまに聴くカセットテープから流れてくるのは賛美歌だ。

そもそも、韓国人の信仰心は厚いことで知られており、3年ほど前の調査だが、韓国人のほぼ50%が宗教を信じているという。
そのうち、キリスト教(プロテスタント&カトリック)を信仰する人は55%。なんと仏教より多く、さらに在米韓国系移民者の約70〜75%が、アメリカ内のコリアンエスニック教会に通っているらしい。

しかし、職場の先輩、韓国系移民のオーさん(エスター・ムーン)は、モニカに向かって「ここには韓国人が15人ほどいるけど、みんな韓国人だけが集まる都会の教会が嫌なため、片田舎のアーカンソーに越してきた」と言うのだ。

ここからは勝手な推察だが、都会のコリアンエスニック教会には、移民生活に必要な情報やセーフティネットを提供する互扶助機能はあるものの、移民1世である親世代に内面化した「韓国的なもの」の強引な押し付けや、年齢や社会的地位の差によって生じる「歪んだ序列」があるのだろう。

永住権を得て、新天地アメリカでリスタートしようとするオーさんたちには、それらは息が詰まるほどウザいのだ。

そこで夫ジェイコブは、クリスチャンとしての“心の拠り所”が無い妻に、「一般信者が集う日曜教会に行こう」と提案。実のところ、アーカンソーに馴染まず、寂しそうに見えるモニカに新しい話し相手を作るために行く訳だが、アンとデビッドにはすぐに友達ができるのに、モニカは物怖じしてなかなか出来ない。
同世代の肉付きの良い白人女性たちに話しかけられても、「私、英語が下手なんで…」と言い訳して、そそくさとその場から立ち去る。

今度は、韓国人としての強いアイデンティティが邪魔をして、周囲のアメリカ人との間に垣根を作ってしまうのだ。
(あるいは、無けなしのお金をはたいて献金する自分が、信者として恥ずかしいと思ったのかもしれない…)

一方、夫のジェイコブは、アーカンソーの荒地を切り拓き、韓国野菜を育てようとしている。
栽培予定の韓国野菜は、レタス、ナス、トマト、冬瓜…。

本人曰く「毎年3万人の韓国人がアメリカに移住してくる。だからいずれ韓国野菜が恋しくなるんだ」。

その動機は「韓国野菜の農場を持てば、大儲けができる」という、素人の浅知恵のようにも思えてしまうし、この荒れた何もない50エーカーの土地を、ジェイコブはきっと騙されて購入したのだろう。

融資先のオッサンには「アーカンソーで、農業をやって成功する確率はフィフティーフィフティー」と言われるし、前の土地の持ち主は、野菜が育たず、借金苦で自殺。
手伝いをしてくれる農夫のポール(ウィル・パットン)はおそらく独り身で、近所の悪ガキたちから「家に水道を引いていないから、トイレはバケツでする」と小バカにされているし、デビッドの親友ジョニーの父親(スコット・ヘイズ)も農業で失敗し、妻から三行半をつけられ離婚。今は低所得のレッドネックに身を窶している。

これは1980年の世界的経済不況によって、国内での農作物の需要が減少し、生産がますます大規模経営に集中するに従い、農家の戸数が減少したことに起因する。そして、なりふり構わぬ農産物の輸出攻勢を掲げた、時の大統領ロナルド・レーガンは年々増加する移民への対策も兼ねて、移民たちに安く、荒れた農地を売り払ったのだ。

そう、ジェイコブが今、目指しているものは所謂「アメリカン・ドリーム」だ…。

今更説明するまでもないが、アメリカン・ドリームとは、アメリカ人が建国以来信奉してきた、文字通り「アメリカ的成功の夢」で、この言葉を生み出したのは歴史家&作家であるジェームズ・アダムズ。
アメリカでは能力に応じて、豊かな生活を実現する機会が、出身や階級に関係なく、誰にでも与えられるとするものである。

独立してひと山当てたいと願い、アーカンソーで成功するのだと自らに言い聞かせるジェイコブ。
「移動によって社会的地位が上昇する」という、西部開拓時代から培ったアメリカ的価値観を信じているのだ。

但し、開拓民を描いた過去のアメリカ映画、その主人公たちとジェイコブは違うように見える。

ヘンリー・フォンダが「怒りの葡萄(40年)」で演じた農業流民のように、逆境に対しての怒りをそれほど抱え込んでいるようには見えないし、周囲の反対を押し切って新たな牧草地を目指す「赤い河(48年)」で、ジョン・ウェインが演じた牧場主ほどの独善ぶり・非情さは感じられない。

ジェイコブにとって、成功は自分自身の存在証明でもあり、農業を通じた夢の達成を求めただけだ。
しかし、その一世一代の賭けに敗れ、大事な家族を離散の危機に陥れることになる。

ジェイコブが韓国野菜の栽培に固執したのは、「父親が成功したところを子供たちは見たいはずだ」という思いからだった。
一方、モニカはそんな夫について行けず、別居して環境の良いカリフォルニアに戻ろうとする。
「子供たちが一番見たいのは、父親と母親が一緒にいるところのはずなのに…」

モニカは、ジェイコブに向かって「家族を繋ぐものは野菜じゃない」とハッキリ口にする。
かなり乱暴な書き方になるが、これは「何よりも家族を大事にする」という考え方で、とりわけ韓国人には強い傾向があるように思える。
自分のルーツや家系を大切にする韓国特有の思想から生まれたものなのだろう。

そして、これも勝手な見立てだが、鑑賞中、ジェイコブもモニカも同じように見えてしまった。

夫として妻として、父親として母親として、アメリカで生きる韓国人移民として…自分は何をすべきか、自分に価値はあるのか。
目に見えるものの一面ばかりに拘りすぎて、本来の役割・存在意義・目標を見失い、混乱をきたして、二人のアイデンティティが拡散してしまったように思えたのだ。

劇中、モニカが「ソウルで生きるのがイヤだった」と過去を振り返るシーンがある。
ジェイコブとモニカが出会い、恋をし、青春を過ごした70年代の韓国。
学生たちは、パク・チョンヒ大統領による独裁政権に反対して毎日デモを繰り広げ、催涙弾や棍棒、軍靴に踏みにじられながら生きてきた。
そんな政府の抑圧の中で、若者たちは新しい夢や勇気を奮い起こしたのだろう。ジェイコブたちの夢、それがアメリカへの移住だった。

そして、こんな二人のやりとりがある。
ジェイコブ「結婚する時、
      二人で交わした
      約束を覚えている?
      アメリカに移住して、
      互いに救い合おう」
モニカ「覚えてるわ…」

そんな二人の約束、思い描いた夢は、アメリカに移住して10年が経ち、今や霧散しつつある。
「助け合うどころか、ケンカばかりし過ぎて病気の子供が産まれたのかな…」とため息まじりに言葉を吐くジェイコブ。
移住したアメリカで生まれ育ったデビッドは、心臓を患っているのだ…。

そんな中、本作の転換点となるのが、おばあちゃんが無意識に持ち込んだ「韓国人としての価値観」が、ジェイコブたち家族にとっての「大いなる救い」となることだろう。

本作「ミナリ」では、小さなトレーラーハウスに三世代が同居することになる。
家の外では英語を使うが、家庭内の会話では韓国語を話すジェイコブとモニカ。
両親に対しては韓国語を使うものの、姉弟間の会話ではごく自然に英語で会話するアンとデビッド。
家族の中にすら世代間、アイデンティティの差異があるのだ。

そこに英語が話せない、ちょっと奇天烈なおばあちゃんの登場によって、硬直していた一家が次第にほぐれていく。

冒頭、「ただで見つけられるものに金を払うな!」という一家言があるジェイコブは、棒や振り子などの装置によって地下水や貴金属の鉱脈を見つける手法「ダウジング」が眉唾物に思えたのか、それを盛んに勧める商売人を追い払い、なんとか自力で(無料の)地下水を掘り当て、野菜の栽培に使うが、その地下水が枯渇してしまい、作物も枯れ果て、ついには有料の水道水に頼らざるを得なくなる。

他の水源を掘り起こそうと躍起になったものの、結局徒労に終わり、汗まみれの髪の毛を、有料で貴重な水道水で、しかも畑仕事に猛反対の妻モニカに洗ってもらうジェイコブの姿は、シニカルを通り越してちょっと観ていて辛くなる(笑)。

このように、ジェイコブは韓国野菜の栽培に相当な苦労をするワケだが、おばあちゃんは、いとも簡単に川辺でミナリ(=セリ)を繁殖させる。これは韓国人ならではの強さ、そのルーツを垣間見ることが出来るシーンだ。

川の辺りでミナリを育てるおばあちゃん。
「デビッドはアメリカ育ちだから、ミナリを食べたことが無いでしょ?ミナリは雑草みたいにどこでも育つから誰でも摘んで食べられる。お金持ちでも、貧しい人でも、食べて元気になれる最高の植物なんだ。ミナリはキムチにもなるし、チゲにも入れられるし、薬にもなる!」

そして、
「Minari is Wonderful, Wonderful!! 」と、
自分の未来に怯えるデビッドに言い聞かせる。

1980年代、おそらくアメリカでミナリを食べるのは韓国系移民だけだっただろう。
これは異国で生活することで、多くの試練や困難を経験するであろう移民たちが、身分や貧富の差など関係なく、自らが韓国人であることを意識するもの、そのメタファーがミナリであり、どんな場所でもどんな時でも、韓国人は現実から逃げずに立ち向かえば、“自分らしく”生きていける。
そんなアイデンティティを失わないようにすることが大事だと説いているように思えてならない。

また、母モニカの教え「就寝前にお祈りをすれば、天国に行ける」を盲信しているデビッドに、おばあちゃんは「見えない天国なんて信じなくていい」と戒める。これは日中、デビッドが川の辺りで見かけたヘビを恐れた時の箴言と同じだ。

「見えたものの方が良いんだよ。見えないもの、隠れているものはとっても危険なんだ」

ヘビは旧約聖書の中でアダムとイブをそそのかし、禁断の実を食べさせ、二人がエデンの園を追放させられる原因を作った悪魔の化身として登場する。
見た目の怖さもあるだろうが、デビッドは母親か教会の牧師からそんなことを既に教わっていて、ヘビを恐れたのかもしれない。

しかしおばあちゃんにしてみれば、ヘビはヘビ。同じ川辺で青々と生い茂るミナリと何ら変わらないのだ。
神様の理想も大事だが、思い込むことよりも、まず目の前に見えるもの、耳から直に聞こえてくることから「真実を見抜くこと」が大切だと説いているような気がしてならない。

そしておばあちゃんは、熱心な信徒である娘モニカにも、こう告げる。
「デビッドはアンタが思っているより、元気だよ。今日、一緒に川に行って水を汲んだくらいだよ」
これは見えているもの(=現実)をちゃんと直視しないで、見えないもの(=将来)への不安ばかりに苛まれている娘への忠告とも云えるだろう。
実のところ、その後の病院での検診で判明するのだが、水のおかげ、片田舎の生活のおかげで、デビッドの心臓は良好に回復しつつあるのだ。

更にネタバレで恐縮だが、娘夫婦に世話になっていることの恩返しとばかりにおばあちゃんがしたことが、野菜が置かれた納屋を焼失してしまうことになる。

それを見たモニカは号泣する。ただし、夫が抱いたアメリカン・ドリームが淡い夢だったことを気付かされ、絶望してしまったからではない。
家族のために、自分たちの未来のために、夫が一生懸命働いてくれた証が、無になってしまったことが切ないのだ。

さて、本作は序盤の何気ない会話が、物語の円環を見事に閉じる役割となる。

引っ越したその日の夜、ジェイコブは「1日目だから、今夜は家族みんなで雑魚寝をしよう!楽しそうだろ!」と提案するのだが、アンに「お父さんはイビキがうるさいから嫌だ」と軽く拒否されるなど、誰一人、賛同してくれない。
しかし、終幕間際、いろんなアクシデントが起こった後、疲れ切ったのか、リビングでスヤスヤと幸せそうな顔で雑魚寝をする家族4人。

それをなんとも言えない表情で見つめるおばあちゃん…。

戦争で夫を失い、女手一つでモニカを育てたおばあちゃんからすれば、長年見ることができなかった風景であり、アメリカに来れば喧嘩が絶えなかった夫婦・家族がようやく繋がった、理想の家族の姿なのかもしれない。

そしてジェイコブやモニカがしがみ付いてきたアメリカ的価値観、家族の絆に亀裂をもたらしたアメリカン・ドリームの幻影を、おばあちゃんが追いやり、家族を再び結びつけたようにも見えてくる。

たしか、劇中に、おばあちゃんのこんな台詞があったと思う。
「傷つくことは、成長の一部になる…」

本作は家族の再生のハナシ、自分のアイデンティティを取り戻すハナシなのだ。


最後に…

冒頭、製作スタジオのロゴに続いて映し出されたファーストカットは、車の後部座席に座るデビッドのバストショット。
それ以降、暫くの間、バックミラーに映る運転する母モニカや助手席で本を読む姉アンなど、車中の画は全てデビッドの見た目・主観映像。車窓からの風景さえも後部座席のデビットから見たアングルだ。

本作「ミナリ」は極力、息子デビッドの目線の高さで「画」が切り取られている。

引っ越したその日、父から「いいものを見せてやる!」と言われて連れて行かれた、雑草が生い茂ったただ広いだけの草地に始まり、木々の間から差し込む陽光、ジェイコブが野菜の苗を植えるシーン、我が家となったボロいトレーラーハウスの室内も、デビッドの身長くらいの高さ、ローアングルで撮影されている。

アーカンソーの煌めくような美しい自然。
逆に両親のケンカが絶えない家の中は間接照明のみで薄暗い。
しかしおばあちゃんと過ごす場面では、窓から陽の光が降り注ぎ、あたたかく感じられる。

これは監督リー・アイザック・チャン、彼の思い出の残像なのだろう。

本作の脚本は、リー・アイザック・チャンが、家族を養うために映像業界から引退し、教師になろうと思った矢先、残り3か月の間で、クリエイター人生最後の脚本として書かれたものだ。

その着想となったのは、20世紀初頭のアメリカを代表する女流作家ウィラ・キャザーの「マイ・アントニーア(1918年)」。
19世紀後半のアメリカ開拓時代を舞台に、主人公である少年の目を通して、ボヘミアから移民してきた女性アントニーアが、新天地で農民として懸命に生きる姿を描いた物語だ。

ウィラは、それまで読者に迎合するような都会を舞台にした小説ばかりを書いて、本来の自分(=地方出身者)を偽っていたことを悔い、「マイ・アントニーア」を執筆することを決心する。

「私の人生は、賞賛を求めることを止め、自分自身を思い出すことから始まる」

このウィラの言葉に導かれ、リー・アイザック・チャンは、自分の少年時代、家族の物語を書き始める。
そう、本作「ミナリ」は彼の半自伝的な作品で、彼も小さい頃にオザークの小さな町に移住し、父親は韓国産の梨を栽培していた。

耕したばかりの土の色を見て喜ぶ父、祖母が川で労せずに韓国野菜を育てたこと、ヘビに石を投げて怒られたこと…。
劇中で描かれた多くの事象がリー・アイザック・チャンの実体験であり、彼はその思い出を脚本に綴ることで、自分の人生を新たに発見したと言う。

7歳のデビッドは少年時代の自分。家族を養うために苦悩するジェイコブは今の自分。そんな二人をひとつの物語の中で同時に描くことで、リー・アイザック・チャンは自分のアイデンティティを再定義したのだろう。

そして、そんな自分を育て上げてくれた、移民第一世代の父親への敬意を込めた作品であることに間違いない…。

あと、ホントにどうでもイイことなのだが…

本作「ミナリ」の劇中、清涼飲料のマウンテンデューが、印象的なアイテムとして度々登場する。

アンは「山で汲んできた水で、だから体にイイって父さんが言ってた」というが…。

確かに名前の「Mountain Dew」を直訳すれば「山の雫」。
しかし飲んでみれば、レモン・ライム風味の炭酸飲料だってことは誰だって分かる。
アメリカでは1960年代中頃にペプシコーラが全米中に販売して人気を博し、日本でもたしか80年代初頭に出回り、当時、自分を含めた高校生には買い食いの際につきもののヒット飲料だった。

だから、きっと隣国の韓国も同様で、アンもデビッドも、そしておばあちゃんも、アメリカに来て、初めてマウンテンデューの存在を知ったのだと思う。

しかし、「山で汲んできた水」というアンの発言がどうしても気になる。

炭酸を飲んだら体に悪いとおばあちゃんに思われ、あの苦そうな漢方薬の「鹿茸(ロクジョウ)」を煎じたお茶を飲まされることになるかもしれないので、アンがウソをついたように思えるし、80年代にアメリカで売られていたマウンテンデューは、炭酸が微妙に薄かったのかもしれない…(笑)。

ネットで調べても解決できず、3年近くずっとモヤモヤしているので、監督の狙いとか実情を、もしご存知の方がいらっしゃいましたら、お手数ですがコメント頂ければ幸いです。