シゲーニョ

マリグナント 狂暴な悪夢のシゲーニョのレビュー・感想・評価

マリグナント 狂暴な悪夢(2021年製作の映画)
3.9
正直に申し上げると、
本作「マリグナント 狂暴な悪夢(21年)」の監督ジェームズ・ワンのことは、あまり詳しくない。
ハリウッドを代表するヒットメーカーの一人で、“ホラー映画界の寵児”という印象ぐらい。

劇場で観た作品も、ケビン・ベーコン主演の復讐劇「狼の死刑宣告(07年)」と、DCコミックのヒーロー物「アクアマン(18年)」の2本だけで、しかもジェームズ・ワンのフィルモグラフィーの中で“異質”の部類に入る作品だ(笑)。

そもそも自分は、観ていて痛覚を思いっきり刺激されるような、エグい描写が苦手な方で、監督デビュー作「ソウ(04年)」もオチの意外性や、不真面目なヒトを拉致監禁して絶体絶命の状況に陥れ、人生の大切さを説くという殺人鬼の説教キャラに関心はしたものの、やはりグロ耐性の無い自分には、後味の悪さが残ってしまった。

以降のシリーズ続編も、さらに増した痛感描写、趣向を凝らした残酷デスゲームの連打が“売り”という、周囲からの評判を聞いてしまえば、当然、鑑賞意欲など湧くはずもなく、またジェームズ・ワンの冠を配した怪談ホラー、「インシディアス(10年〜)」シリーズや「死霊館(13年〜)」シリーズも、内容云々関係なく、“トーチャーポルノの帝王が作った作品、そのフランチャイズ”というイメージが強過ぎて、勝手に敬遠してしまった次第である。

そんな中、いつ頃だったか、ジェームズ・ワンの“ホラー監督卒業宣言”というニュースを聞き、また本作「マリグナント」公開直前のインタビューで、「今度の新作はシリーズの続編じゃないし、原作モノでもない、オリジナルの作品だ。観客は僕に新しいモノを求めているのだから!」とずいぶん威勢の良いコメントをしていたので、それを信じて劇場に足を運んだワケだが…。

本作「マリグナント 狂暴な悪夢」は、過去に3度も流産を経験した妊婦マディソン(アナベラ・ウォーリス)が、献身的な妹シドニー(マディー・ハッソン)に支えられながら、待望の出産が間近に迫った頃、とある事件に巻き込まれ、それを機に恐ろしい幻覚に苛まれていくストーリー。

ティーザートレーラーを観た際、犯人らしき人物が黒いコートに黒革の手袋、ナイフか刀剣みたいなモノを凶器にしている点など、マリオ・バーヴァの「モデル連続殺人!(63年)」やダリオ・アルジェントの「歓びの毒牙(71年)」がすぐに思い起こされ、「ジャーロ(=イタリア流猟奇ミステリー)みたいな映画なんだろうなぁ〜」と勝手に想像していたのだが、いざ劇場に赴き、ドキドキしながらスクリーンを眺めていたら、徐々にトンデモないことに気づかされる(!!)

たしかに…
薄暗い部屋で急に背後から××されたり、浴槽に浸かる老紳士が○○されるシーンといった、アントニオ・ビドー監督の「美人ダンサー襲撃(77年)」っぽいシチュエーションが出てきたり、機能性より様式美を重視したトロフィー型の凶器が、アルジェントの「オペラ座/血の喝采(88年)」で、主人公のボーイフレンドが刺されたナイフになんとなく似ていることなど、明白なジャーロ要素がかなり見受けられるが、実のところ、それらは本作においては軽いジャブのようなもので、他にもゴシックホラー、サイキックホラー、ボディホラー、そしてモンスターホラー(!?)といったサブジャンルの要素を、節操なく(←褒めてます!)織り交ぜた作りになっているのだ。

70年代から90年代初頭に流行ったジャンル映画の模倣再生、否、再構築して新たなスタイルに仕上げている点に着目すれば、音楽でいうところの“サンプリング”に近いのかも知れない。

先ず、本作の重要な舞台となるシミオン研究所が、恐怖の迷宮を描いたジョン・カーペンターの「マウス・オブ・マッドネス(94年)」に出てくるような、断崖にそびえ立つゴシック風の建物。

次に、マディソンが自宅の部屋から窓越しに、点滅する街灯を不審に眺めるシーンは、同じくカーペンターのスラッシャーホラーの金字塔「ハロウィン(78年)」で、主人公ローリーがブギーマンらしき影を目撃する場面を想起させる。

さらに電気や電波を自由自在に操るのは、ウェス・クレイヴンがメガホンを取った、殺人鬼の死刑囚が電気の力で蘇る「ショッカー(89年)」。

他にも、突然できた腫瘍によって狂暴化する、デヴィッド・クローネンバーグの「ラビッド(77年)」のように、登場人物の一人が肉体の変容に怯える描写や、ブライアン・デ・パルマの「キャリー(76年)」&「フューリー(78年)」ばりのサイキック残酷暴走パニックが勃発したりする。

[注:ホラー映画のジャンルでは無いが…
自宅に侵入した襲撃者から逃げるかのように、1階から2階へと駆け上がるマディソンを延々と追った長回し、部屋から部屋へと移動する人物を、ドールハウスを覗くように天井から撮った移動ショットは、やはりデ・パルマの初期作「Get to Know Your Rabbit(71年)」での、迷路のような巨大オフィスを歩く主人公。「スネーク・アイズ(98年)」でのゲイリー・シニーズ扮するダン中尉が、追跡した女性が逃げ込んだと思しき部屋に目星をつけた瞬間、カメラがその部屋を俯瞰で捉え、さらには隣から隣へと視点を移動するショットのパスティーシュだろう。
あと、やや強引かもしれないが(汗)、
本作のポスター、血塗られた赤ら顔に白目が強調される絵面は、フェイ・ダナウェイが扮した主人公が、殺人現場を幻視する「アイズ(78年)」の、黒灰色に白目が光るUS版ポスターを連想させられる…]


古参のホラー映画ファンからしてみれば、既視感アリアリのビジュアル、そのオンパレード。
喩えるなら、全部乗せラーメンのような映画だ。

なので、本作中盤まで、観ていてビックリして劇場の椅子から腰を浮かせたのは、DV夫のデレク(ジェイク・アベル)が、妊娠中でボテ腹のマディソンの後頭部を思いっきり部屋の壁にブチ当てる、実際にあってはならない(!)シーンと、ある屋敷の天井から突然、物凄い音を立てながら、これ以上ない絶妙なタイミングで○○○が落下してくるシーン、その2つぐらいだった…(笑)。

また、本作は一応、ホラー映画という体裁を取りながら、時折、笑いを誘うパンチラインを入れてくる。
しかも、ちょっとクラシックな、アラフィフあたりのオッサンの笑いのツボを突く、日本人的に云えば“昭和の香り”を感じさせるようなジョークだ。

例えば、TVドラマ「相棒」の六角精児みたいな鑑識のメガネっ娘ウィニーが、色々あって警察署が全滅しそうな時、携帯で救急隊を呼ぼうと通報するのだが、「あ!自分とこの警察にかけちゃった、てへっ(笑)」と、吉本新喜劇に出てくるようなドジっ娘ぶりを発揮!!
[ちなみに、このオンナ六角を演じたイングリッド・ビズは、実は監督ジェームズ・ワンの奥さんで、本作では製作指揮&原案も兼ねた才女(!?)である]

そして50過ぎのやさぐれオンナ刑事レジーナ(マイコール・ブリアナ・ホワイト)の愚痴というか、皮肉めいた冗談も、イチイチ時代遅れの臭いがする。

先ず、マディソンが「殺人現場を幻視した…」と真顔で言うと、レジーナは「あんた、“Encyclopedia Brown”かよ!もしそうなら、事件解決じゃん!」と苦笑しながら言い返す。

この“Encyclopedia Brown”とは、1963年から始まった児童文学「少年探偵ブラウン」シリーズのことで、主人公の5歳の少年ブラウンは、類稀なる記憶力(=超能力)により、事件を解決することで、「Mr. Encyclopedia(=百科辞典くん)」と呼ばれている。
日本でもだいぶ昔に翻訳されたほどの、ちょっと有名な人気探偵小説らしいが、初刊から半世紀以上経つ現在、誰がこんな隠喩を込めた一言にピン!とくるのだろうか…(笑)。

さらに、マディソンが幻覚で見た犯人の顔を元に作られた人相書きを見るや、それが常識外れの怪物チックなあまり、「『グーニーズ(85年)』に出てたスロースに捜査令状を出さなきゃ!」と、30年以上前に公開された映画、その怪物キャラの名前を出して、小バカにするのだ。

他にも、本作では、今ではもはや化石扱いのVHSテープが貴重なアイテムとなり、あのガビガビ画像が印象的に何度も差し込まれる。
例えば、シミオン研究所の患者の治療記録とか、マディソンの9歳の誕生日パーティーとか…。

但し、これらは、製作スタッフの「70年代から90年代初頭のホラー映画」への回帰、その主張にも思えてくる。

本作の撮影時、ジェームズ・ワンは44歳。脚本のイングリッド・ビズは33歳。撮影のマイケル・バージェスは36歳。他のキャスト・スタッフも多分30代から40代で、みんな幼少期にレンタルビデオか、ワゴンセールで安価で売られていた、「エルム街の悪夢(84年)」「ZOMBIO/死霊のしたたり(85年)」「ブレインダメージ(87年)」といった低予算ホラー映画を、小躍りしながら夢中で観ていたのだろう。

ネタバレ覚悟で書かせて頂くが、
本作冒頭のクレジットタイトルも、70年代のサイコ・サスペンス、デ・パルマの出世作「悪魔のシスター(72年)」のオープニングとそっくりだ。

本作「マリグナント 狂暴な悪夢」では、二十数年程前にシミオン研究所に収容された、とある患者のカルテや観察レポートに記載された“文字”が度々クローズアップされる。

“幻覚”とか“白日夢”、“電気を操作・支配する”、“母親、子供を託す”や、意味ありげな人物の“名前”…などなど。
さらにそこに悪性腫瘍を摘出しているような、惨たらしい手術シーンがプラスされていく。

一方、「悪魔のシスター」は、母胎にいる幼体=胎児の写真が幾重にもコラージュされ、最後のカットでそれが“双生児”だったとわかる展開。

そう、「悪魔のシスター」を鑑賞済みの方ならお分かりになると思うが、本作「マリグナント」は冒頭のクレジットタイトルで、オチ含め大事なことをバラしてしまっている!!

「悪魔のシスター」は、ジギルとハイドのような二面性を持った女性が実は“双子”だったというハナシで、それを本作に変換すれば、クローズアップされた“文言”の数々は、物語の展開に於いて重要なカギとなるのだ。

両作の共通点、それは分離手術を行ったことで、異変が生じた結合双生児。

「悪魔のシスター」の監督ブライアン・デ・パルマは、開巻してすぐ、(一瞬ながらも)戦慄の事実=オチを見せたのは、観客が主人公に同情するように仕組んだ策略、ミスリードだと、その理由を述べている…。

もちろん過去にも、「悪魔のシスター」のように、双子の片割れが死亡した際、その一部分が精神分裂して、生き残った方に憑依してしまい、殺意に目覚めたり、肉体が変化するような物語は少なくない。

子宮内で双子が互いに吸収し合い、暴力的な人間になってしまう、スティーヴン・キングの小説「ダークハーフ(89年)」など、その中で最もポピュラーな作品であろう。

本作も中盤あたりまで、「悪魔のシスター」のように、死んだ双子の片割れが実は生存していたのか、それともマディソンの神経症的な妄想なのか、一体どっちなんだ?と観客をミスリード、戸惑わせながら引っ張っていくが、最後の最後でとんでもない方向に舵を切る。

この転換点は、お見事としか言いようがない。
なんと、ジャンルを越境してしまうのだ!!

その顕著たるのが、後半ようやく、露になる怪物のような容貌をした真犯人×××の姿。
底抜けSFモンスター映画「エクストロ(83年)」の宇宙人みたいな“人間裏返し状態”のくせして、歩き走り回るスピードがハンパなく速い!!
さらにパルクールとドニー・イェンの香港アクションをミックスした感じの、ケレンに満ちたアクロバティックな動きを見せるのだ。

初見時、この奇怪な動きで人々を翻弄する姿は、デジタル・アニメーションか、「リング(98年)」の貞子の逆回しのように加工したのだろうと高を括っていたのだが、後日、ネットのメイキング動画で、曲芸師経験のある女優マリーナ・マゼーパとダンサー兼俳優のガブリエル・トロイ・ジェームズの二人が、着ぐるみ状態で一切CGを使わずに演じた、素のままだったことを知り、仰天!!

この×××がイケメン軟弱刑事(ジョージ・ヤング)に追われるシーンが、結構イケてて、ビルの外の階段をグルグル回転しながら降りていく姿はもちろん、その立体感伴うチェイスは、ジェームズ・ワンが手掛けた「狼の死刑宣告」での名シーン、立体駐車場でひたすらギャングから逃げ惑うケビン・ベーコン、そのアップグレード版と思わせる秀逸なスタント&カメラワークだ。

また、×××によって警察署が壊滅状態になるのは、まさに「ターミネーター(84年)」。
最後に、×××が銃を突きつけられて、顔が反転する様は「ターミネーター2(91年)」のT-1000を思い出さずにはいられない。

これ以上書くと、未だ観ていない方から苦情が来そうなのでこの辺で留めるが…(汗)

観賞後に感じたことだが、本作「マリグナント 狂暴な悪夢」は、特定の作品に対するオマージュとか、特定の表現へのフェティッシュじゃなく、一見、ゴッタ煮に思えるかもしれないが、ジェームズ・ワンは新しいスタイルのエンタメ映画を作ろうと試みたのではないだろうか。

「ゴシックホラーは素晴らしい」とか「ジャーロってやっぱイイよね!」といったジャンルに対する愛情、もしくはノスタルジーに浸るだけではなく、むしろ観客を誘導するネタとして使っているように臆見してしまうのだ。

聞くところによれば、ジェームズ・ワンは、ホラー映画にアクロバティックなアクション、ガンガン動き回るカメラ、チャカチャカした細かいカット割りなどを初めて取り入れた、元来から野心的な演出家だったらしいが、あくまでも勝手な推論だが、「ワイルド・スピード SKY MISSION(15年)」と「アクアマン(18年)」での仕事が多分に影響していると思えてならない。

これまでの「ソウ」や「死霊館」といったフランチャイズは、企画当初から監督・製作・脚本のいずれかで関わり、自由にクリエティブコントロールできたワケだが、「ワイスピ」や「DCエクステンデッドユニバース」は“他者が創造した世界”であり、持ち前の作家性をフルに発揮できない現場でもある。

そんな状況下で、ジェームズ・ワンは、ジャンルに囚われず自由に映画を創造する方法、以前の自分よりも、もっと自分らしく、もっと創造的なやり方を模索・構築していたのではないだろうか。

「こうでなければならない・こうあるべき」といったキャラ設定などの既存のルールや、シリーズの新規ファン獲得のための新たな要素を、只々プロデューサーや脚本家に言われるがまま放り込むのではなく、順序立てて整理し、いかに自分が伝えたい主題へと着地させられるか、そういった術を学んだのだと思う。

ここ最近で、ジェームズ・ワンの作品は「アクアマン」と本作しか観ていない上での個人的な感想だが…(汗)
“1シーンに複数の要素を投入する”、このスタイルは、特段散らかった印象は受けないし、劇中で語られる事柄一つ一つ、結末も含め、勿体ぶらずにドンドン見せつけてくるテンポと相俟って、妙に納得させられてしまった。

うまく言えないが、一個一個のインスピレーションがそつなく織り重なれば、大きなカタルシスとなって、めっちゃオモロい映画になることを、改めて本作で教えられた感じである…。


最後に…

本作「マリグナント 狂暴な悪夢」がR-18指定だとは、劇場で本篇が始まる直前のクレジットを見るまで知らなかった。
「エクソシスト(73年)」を小学生、「サスペリア(78年)」が中学生、「食人族(83年)」を高校性の時に、劇場で大手を振って観ていた自分は、不謹慎ながら「いい時代に生まれた」と思えてならない(笑)。

映倫が本作を18歳未満の入場・鑑賞を禁止したのは、殺害シーンの血塗れ残酷描写の他に、たぶん結合双生児、しかも○○××結合体だということが、問題視されたのだろう。

本作は正確に云えば、映画オリジナルの作品ではなく、19世紀末、アメリカで騒がれた都市伝説、伝承上のキャラクター、エドワード・モードレイクがモデルになっている。
イギリス貴族の後継ぎとして生まれたモードレイクは、元来、その後頭部にもう一つの××があったと云われている…。

そうなると、現在で、「悪魔のシスター(72年)」や「バスケット・ケース(82年)」が、仮に新作として公開されたとしても、映画館で子供たちがワイワイ、ガヤガヤ騒ぎながら観ることはできなくなってしまうのだろうか。

なので、三池崇史の「妖怪大戦争 ガーディアンズ(21年)」に、本作の犯人×××に酷似した、後頭部に大きな○○を持つ妖怪二口女が堂々と登場しているのは、なんか、ビミョーに納得いかないのである…。


あと、もう一つどうでもイイ話で恐縮だが…
本作「マリグナント 狂暴な悪夢」では、聞き覚えのある歌が2曲流れる。

1曲目は米国のロックバンド、ピクシーズの「Where Is My Mind(88年)」。

「足は空に、頭は地に着いた状態だ/このトリックを試してみるかい?/頭が押し潰されるよ/でも中身は空っぽ/きっと君は自分に問いかけるだろう/正気を失った?って」

但し、劇中ではボーカル無しのインストゥルメンタルで変奏され、計3シーンで使用されている。
1つはマディソンが妹のシドニーに自分の隠された秘密を教えるシーン。あとの2つは、犯人の×××が重要人物の女性を拘束するシーンと、その女性が発見される場面。

この「Where Is My Mind」は、ブラピの「ファイト・クラブ(99年)」でも印象的な場面で流れていたので、本作での使用意図は、「ファイト・クラブ」を観た方ならなんとなくお分かり頂けると思う。

そしてもう1曲が、ブライアン・フェリーの「Your Painted Smile(偽りの微笑み/94年)」だ。

犯人の×××は自分の声を電波送信する能力があり、マディソンの自室のラジオへメッセージを送ってくるのだが、その前段に聴こえてくるのがこの曲。

劇場での初鑑賞時では、途中でノイズが入る演出効果によって、あまり歌詞を聴き取れなかったのだが、改めて聴き直すと、歌詞が×××の気持ちを代弁しているかのように思えてくる。

「生きるには速すぎる/死ぬには若過ぎる/(中略)オレたちは決して折り合えない/一晩中、踊ろう/オレは頭の内側で道を見失った/お前の嘘の笑顔に騙されて」