YasujiOshiba

La corona di ferro(原題)のYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

La corona di ferro(原題)(1941年製作の映画)
-
イタリア版DVDにて鑑賞。1941年のヴェネツィア映画祭金獅子賞作品というのだけど、なるほど納得。冒頭の戦闘シーンから圧倒的な迫力。おそらく撮影はチネチッタ撮影所。多くのエキストラを動かし、それをカメラが動きながら捉えるという迫力あるシーンは圧倒的。

オープニング。どこかの教会の書見台。古い書物が開かれると、そこには「鉄の王冠の伝説 La leggenda della corona di ferro」と記されている。「鉄の王冠 la corona di ferro 」は映画のタイトルだが、中世前期につくられたヨーロッパで最も古い王冠のひとつで、キリストを十字架に打ちつけた釘で鋳造された聖なる冠であり、キリスト教的には聖遺物(Reliquia)とされる。

この書物のページには、鋳造を命じたビザンツ皇帝が、これを平和の印としてローマ教皇に進呈しようと、警護する一行を派遣するが、その旅は長く、苦難に満ちたもので、ちょうどある国を通りかかったときのこと、何世紀にもわたって続いていた戦争が終わろうとしていた... と読める。

そんなページに続く冒頭の戦闘シーン。それはこの戦いが終わりを迎えようとするもの。勝者となったのはキンダオール国の王リチント(マッシモ・ジロッティ)。敗者の森の民の王アルターチェを丁重に扱い、名誉ある和睦を申し出る。その時だ、リチント王の胸を弓が貫く。誰もが敵の弓かと思ったはずだが、じつはこの王の弟であるセデモンドの部下、弓の名手ファルカスの手によるものだった。

こうして、兄殺しの弟セデモンドは王の座につくことになる。しかし国に帰る森の道で、「鉄の王冠」の一行に出会う。一行は、川が溢れ、橋が落ち、ローマへの道を見失ったので、キンダオールの地を通る許可を求めてきた。セドモンドが、運んでいるもの聖なる王冠とはどんなものかと尋ねると「その王冠が通るところ、不正があるところでは不正が正され、悪が駆逐され、再び王冠が旅立つ時には、善が帰り咲いている」という。

デセモンドが答える。そんな奇跡を起こすものなら、どうして橋をかけなおし、水を退かせないのか。そう言いながら笑ってとりあわないでいると、突然女の声がする。見れば、近くの小屋の2階のテラスに、糸紡ぎの老女(リーナ・モレッリ)。この不思議な老女は、まるでこれからセデモンドに起こることを予言するかのように、「王冠が通るのにはわけがあるからだよ」と言うと、この聖なる王冠が行った奇跡を語りだす。

不思議な老女によると、王冠が立ち寄った森では、兄を殺した木こりに娘が生まれ、殺された兄には息子が生まれたという。この娘と息子の二人はやがて愛し合うようになり、兄を殺した弟の罪を贖うかのように、その弟の娘は、この愛のために命を落とすことになった、というのだ。

それを聞いたセデモンドは、一瞬顔色を変えるが、すぐに笑いながら「それならば、そのふたりの子供を同じ揺り籠で育てればよい。兄弟として育てば愛し合うことはないだろう」。セデモンドがそう言ったとき、国から使いがやってきて、セデモンドには娘が、殺されたリチントには息子が生まれたと知らせるのだった。

事態が、不思議な老女の言うとおりになったことを不吉に思ったのだろう。セデモンドは聖なる王冠を破壊しようとする。護衛の一行から王冠を奪い、破壊しようとするが、この王冠はどうしても壊せない。そこで国の外に持ち出してしまえばよいと、自らの手で国境へ運ぶのだが、鉄の王冠はなぜかどんどん重くなってゆくと、ようやく国境のナテルサ渓谷まで来たとき、ついにはデゼモンドの手を離れ、土のなかへと沈んで、その姿を隠してしまうのだ。

こうして「鉄の王冠」は、この地でその奇跡の力を発揮することになる。リチントの息子(マッシモ・ジロッティ)は、デスモンドの娘エルサ(エリーサ・チェガーニ)と一緒に兄弟として育てられるが、この息子が反抗的なことで怖くなったデスモンドは、その子をライオンの谷へ落としてしまう。ところがこの息子は、ライオンに育てられてアルミニオとして立派な若者となり、不思議な鹿に導かれてツンドラ(ルイーザ・フリーダ)という女武将と出会う。彼女こそは、キンダオール国と戦って敗れ、デスモンドによって奴隷とされた民の王女なのだが、森の姫とライオンに育てられたアルミニオは恋におちる。

一方で、デスモンドの娘エルサは、万が一にも兄の息子と恋に落ちることがないように閉ざされた生活をしていたが、あるとき、ライオンの谷が崩れ、そこに住んでいたものは全て死んだという知らせが届く。殺した兄の息子は死んだのだ。これで安心したデズモンドは、エルサの婿を探すために、騎士たちのトーナメントを行うことにする。

そこに登場するのがアルミニオ。ツンドラの復讐を助けるつもりで街にやってきていたのだが、偶然にお忍びで通りに出ていたエルサと出会う。エルサは一目惚れ。アルミニオも満更ではない。

トーナメントが始まる。このシーンは『ベンハー』さながらの大スペクタクル。一番卑劣な挑戦者が、堂々と戦う騎士たちを次々と打ち倒してゆく。ついにこの男が、嫌がるエルサの婿に決まろうとするそのとき、アルミニオが声をあげる。卑劣な騎士との戦い。これがまたスペクタクル。ついに登場した正義の味方が、卑劣な騎士をみごとに倒すのだけど、映像的にも大迫力。

こうしてアルミニオはエルサの婿に決まり、森の老女の予言が実現する。兄を殺した弟の娘は、その兄の息子と愛しあい、愛のために死ぬことになるというわけだ。というのも、アルミニオは、宮廷で自分がかつて過ごしていたことがあり、エルサとは兄弟だったことを思い出すのだ。絶望するエルサ....

そしてツンドラの恋。彼女はエルサと恋におちたアルミニオに裏切られたと感じるのだが、一方でエルサから、森の民を開放し土地を取りも出せるように頼んでみるという申し出を受けているのだが...

すべての予言が成就するラストは、冒頭のような戦闘シーン。ただ今度はそれがいままさに始まろうとするとき。またしても、あの何世紀も続いた戦いが始まるしかないと絶望的になったその瞬間、エルサが愛のために死んだまさのその死が、あの予言された奇跡をもたらすのだけど、その大地の割れるシーンがまたすばらしくスペクタクル。

いはこれはすごいですわ。たしかに話が盛り沢山で、少し追いかけにくいところもあるけれど、絢爛豪華なセットと衣装、ファンタジーとスペクタクルはぼくたちの目を奪い、いつの間にか中世の世界へ引き込まれてしまう。そこでぼくらが目撃するのは、戦争の愚かさであり、平和を実現する難しさ、それでも愛と犠牲によって奇跡がおこるという、そんな寓話。

この映画が公開されたのは1941年。イタリア王国が英仏政府に対して宣戦布告し、第二次世界大戦に参戦したのが1940年6月10日であることを考えれば、ブラゼッティのこの作品は、戦争のさなかに撮られた反戦映画として、平和を回避するための愛と犠牲と奇跡を謡いあげる。

なるほど、本作を見たドイツのゲッペルスが「こんな映画と我が国で撮ったヤツは銃殺だ」と言うのもよくわかる。いやはや、かつてはファシズムの熱烈な支持者だったブラゼッティだが、彼が一途に作品を取り続けるなかで、ファシズムのほうがブラゼッティから遠ざかっていったのだろう。

なるほど、これはある意味で芸術が芸術に徹することで政治的なものとなった例として、「政治の芸術化」に対抗する「芸術の政治化」(@ベンヤミン)と呼ぶことができるものなのかもしれない。
YasujiOshiba

YasujiOshiba