ニューランド

アリスと市長のニューランドのレビュー・感想・評価

アリスと市長(2019年製作の映画)
3.8
随分評判のいい作品であり続けていたが、個人的には何の関心もなく、今時キャプラや業田義家でもあるまいに、と敬遠はしてた。しかし、今日仕事の前に時間が空き、観ることに。やはり、あまりピンとは来なかったが、ムードに流れないスタイル、議論解決以前の、基本概念の保持、といったフランス的な、日本人には旧い、役に立たない姿勢が、染み入ってくる。現実·物質主義に何の疑いを持たないいまを生きてる身としては、直に響く何かがある。
カメラの階段を降りる人に対する仰俯瞰の角度、人を追い離れ適切な位置に入る人とカメラの横運動と距離の伸縮、2階席への1階席からの角度と顔出しに行く新しい角度、ここでは複数の人間間の職務での力関係による、というより、最もその瞬間に 、個人の誇り·信条が、立場に沿い·ある部分超えて、どこにある事が相応しいかを無意識に求めてるように見える、カドラージュでありデクパージュである。かなり美しい。迷い離れた時にはより解放された音楽がカブったりもする。
「影響力を失った左翼、であることの自分の中での位置付けと、限界の認識」「リヨン250年の歴史と西暦2500年を見通したビジョン」「政治家·科学者·インテリとして、浮いた論議にはまり·引き回されがちも、手離せぬ民衆との接点」「外の健康ではなくて、内を活気付ける、動く姿勢に繋がるアイデア(モラル)の必要、哲学が効く」「現実·地方から離れた金の流れに従った国境を越えた都市連合·バーチャル国家等、無意味。謙虚·責任負い、に現実の人間に向かうべき」
それにしても、目の前の動きにしか価値を認めない、どこへでも流れてく我々日本人の感覚では、時代遅れと片付けられそうな、政治姿勢·現実との接点·内なる中心の価値観の存在、は正直リアリティを感じられないが、清々しいものを受け取れるも事実。結婚·家庭·仕事に届いてないを焦る女性は、同時にそれ以上に内の喪失を避ける事を大事にし、似た、嘗ての恋人の現妻は、その為に精神病院の厄介にが、普通になってる。市政から国政に乗り出す、大基本を自ら+信頼する者=先の女性で作り上げながら、党代表となるタイミングを無意識に(当然如く)外し、政治との距離を計りながら、教育にも入ろうかとしてる、社会党有力者は、分からないようで分かる気もする。彼女と2人で発表は敢えてしなかった(出来なかった)党代表への名乗り、実質本当の信条を書き上げた文章はこんな風だったか。「道徳への信が失墜した。政治家は(実質グローバルな観点で権力に近い者·特に大統領という世界を広く相手にするなら、事実上目指す方向としての)銀行家ではない。科学者も銀行家ではない」。超越的な神や観念の世界は、どうしても身近になり得ないジレンマと羨望がこちらの方にもあるのかもしれない。
30歳の、文学を収め·海外で同時に囓ってた哲学を教えてた女性が、すこし紆余あるが、気力失ったを自覚の(次期大統領候補とされそうな)リヨン市長の秘書室(当初の仕事は埋まったので、代わりに、実務より退いて客観的な位置からアイデアを出す市長に近い職務に、なんて言われる)に入り、彼が自らの世界を内からコントロールする懐刀となり、政策も方向と成果を持ってくる。大統領のチャンスは逸するも、3年後、彼と、家庭も得てまた海外の退歩国に目の向いてる彼女とは、内的繋がりは途絶えることはない(2人の異性としての接近は、今繋いでるものの下位に常にある。実際、2人のそれぞれの夫婦or恋人関係は、当初の見込み·思惑とは逆方向に進む現実も、現れてくる。2人を繋ぐものは、それくらい世界を見透し、2人にいい意味の緊張·決意をあたえてくる)。
展開·中身的には、あまりピンと来ないというか、望んでいない展開というか、納得出来る歓びはないが、離れてる分、妙に客観的に励まされる作品。
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