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ラストブラックマン・イン・サンフランシスコのFrapentaのレビュー・感想・評価

4.2
正直個人的になかなかの癖強映画で観終わるまでに時間を要したが、最後まで観るとなんとなく観せたかった世界観が伝わってきてよかった。
アート映画の部類にギリギリ入るレベルだと思う。こういったものをたまに観ると自分の世界に別の好奇的な世界が入り込んできて混ざり合って、新たに自分を再構築してくれる。これぞ映画体験における醍醐味の一つだと僕は思う。


舞台はジェントリフィケーション(街の高級化)が進み、元々いた者たちが外に追いやられていくサンフランシスコ。

ジミーは祖父が建てたとされる家を大切にしたくて、現在他人が住んでいるのにも関わらず家周りの掃除をしたりしてしまう。そして出ていけと怒られる。それはそうだ。かつて所有していたとはいえ、今は別の人のもの。完全に不法侵入なのだ。だけどそれを諸共せず渇望に似た眼差しで日々見つめる。
つまり、彼は終いには家を再び手に入れようと考えている。そして偶然にも空き家になり、勝手に自分のものにしたのだった。

ここまでが前半部で、この後何が起こるのだろうか、と正直予想ができず混乱していた。あまりにも日常的だし、あまりにも早く目標が達成されてしまった。しかも、半ば運命的に、理由もなく、行動もせず、だ。受動的に手に入れただけだったので、本当にこれは何が言いたいのだろうと疑ってしまった。

そんなモヤモヤを片隅に置きながら鑑賞を進めたら、1人の黒人が死んだ。そして家がお爺さんの建てたものではないことが判明した。親友アレンがそのことを大衆の前でカミングアウトした。ジミーは叫んだ。信じたかった空想の煙がかき消されてしまった喪失感に、まるで親を失ってしまった時のような哀しみを撒き散らしていた。

急に歯車が回り出す後半のストーリー、喜怒哀楽が激しくなっていく姿に、いつのまにか釘付けになっていた。


ここからは全体を観て感じたこと。

この、黒人が多く住んでいる(が、いずれ外側に排斥される)街の空気感や、最初は一見バラバラのように思えて話が進むにつれて計算し尽くされた群像劇とも言えない"偶然に近い形"で登場人物が収束する様はスパイクリー監督の「ドゥザライトシング」を彷彿とさせる。
また、今作において解像度の高すぎる日常が実現できていたのは、おそらく監督ジョータルボットとジミーフェイルズが実際に住んでいたからだろう。人々の振る舞いがポツポツ挟まれるのは我々が生きる上で至極現実的に思えた。一つだけの物事に集中していても、必ず他人のノイズが良し悪しに限らず挿入されるものだ。そういった意味で日常を描くときにこの手法は効果的に感じた。
そして親友アレンを演じたジョナサンメイジャーズが陰ながら見守りつつ繊細な心を演じ切っていて感動した。彼からは見えにくい悩みを抱えているのが伝わってきた。無論今作のメインはジミーなのだが、それを傍らで信じようとするアレンの固い心、酷な現実を知った後ジミーに伝えるべきかの迷いで頭が充満していたとき、そして演劇を作り上げる覚悟は、観ていて心揺さぶるものがあった。彼らがいかにして親友になったかは描かれなかったが、そんな劇的な変化があったわけでもなく気づいたらずっと隣にいてくれた存在になっていたというのを勝手に想像している。


製作者陣からして必然的にリアリティの高い映画になっていった。それでいて、監督固有の美的センスやキャラの光り具合もマッチした、ユニークな映画だったと思う。

「ラストブラックマンインサンフランシスコ」という題名が沁みてくる。このテーマでここまで風情ある映画に仕上げた製作陣に軍配を上げたい。
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