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行き止まりの世界に生まれてのHMのレビュー・感想・評価

4.2
スケートボード場に集まる低所得者層の若者達という、カルチュラル・スタディーズの原点みたいな題材を、当事者が長期間かけて撮りためた映像を再構成して作ったドキュメンタリー映画。ザック(白人男性)、キアー(黒人男性)、ビン(アジア系移民の監督自身)が主な登場人物。
当事者だから研究者とは「見えていること」が違っていて、問題へのアプローチの仕方、動機が大きく違うことが重要なのだと思う。

監督のビン・リューは中国移民1世の30代。幼い頃にアメリカに渡り、アメリカのなかでも経済発展が望めない地域で育ちながらも大学進学、映画のカメラマンという仕事を得て、努力によって貧困から抜け出そうとしている。
しかし、義理の父から虐待を受けて育った過去のトラウマから脱し切れずにいる。映画をつくる動機はそれに向き合い、監督個人の癒しのためでもある。


スケートボード場に集う若者達というテーマは、都市のなかで目に見える現象だから、外から来た研究者にも扱えることだ。そこに貧困や人種差別を読み込むことは、これまでとよくされてきた。

そこからさらに踏み込んで、若者達が家に居場所がないことの目に見えない理由として、「父親からの暴力」という共通点を見出したのが当事者ならではの視点で、この映画の主題だ。

というか、監督は自分が苦しんだ過去を見つめ直すために映画を作っていて、そこから出発している。貧困層や移民という眼差しを向けられ、分析される側が作った映画だからこそ、プレシャスな作品なのだと思う。

「父親からの暴力」、「負の男性性」はどうしてその状況から抜け出せないのか、世代間の負の連鎖を繰り返してしまうのかという疑問に重要な示唆を与えてくれる。

社会構造的に生まれる「生きづらさ」を抱えて、「男ならこう生きるべきだ」ということから逃れられない白人男性のザックは、どんどん人生が転落していく。自分のなかの苦しみはアルコールやドラッグ依存症のかたちであらわれ、家族に暴力をふるってしまう。

ほんとは彼自身も貧困層で、父親に暴力をふるわれ生育過程に問題があっても、「父とは、男とはそういうものだ」と思ってしまう弱さを抱えている。
それが「白人は差別されてないはずなのに、どうしてお前は/自分はこうなのか」と、構造的貧困と自己責任論の負のループにはまってしまって、酒に溺れていってしまう。
スケートボードも、自己を統制・確立できる手段ではあるけど、仕事に真面目に取り組まずやり過ぎてしまうと依存対象になってしまう。

逆にキアー、ビンの方が初めからマイノリティで、差別がわかりやすい。そこに苦しみもするけれど、父親世代の苦境に思いを馳せたり、自分の努力で前の世代が出来なかったささやかな達成もできたりする。
ザックの元妻もそうで、夫から暴力を受けてもしばらくは別れられないでいるが、次第に自己を確立していく。
彼らには弱さが可視化されているからこそのしなやかな強さがあるという、複雑な「希望」も描かれている。

「癒し」や「寄り添い」を女性的な弱さとして退けるのではなく、そこに向き合うことで、個人の痛みや社会の断絶を克服できるのではないか。
難しいけれどまずは自分の持ち場で取り組むことが大切なのだと考えさせられる映画だった。
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