KEGURI

ジョーカーのKEGURIのネタバレレビュー・内容・結末

ジョーカー(2019年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

とんでもない映画を観てしまった…。どこまでも絶望的で、余韻が身体に纏わりつく映画です。アーサーは、何かが引き金となってというよりは、色々なことが積もり積もってジョーカーとなったのだなと思いました(もちろんアーサーの中で決定的なことはあっただろうけど)。母親に人は何て言うんだ?って聞いて、そこで考えたことが善悪の判断を他人に委ねるのではなく、主観で決めよう!という考えになったのかな〜と。アーサー、他人から見れば狂人というカテゴリーに分類されると思うんですけど、アーサーは自分のことを狂人だとは微塵も思ってないし、アーサーは狂ったからジョーカーになったわけではなく、絶望の底に何度も打ち付けられて、抑圧的だった自分を解放してジョーカーになったのかな〜〜〜〜〜アーサー、何で髪緑にしようと思ったんだろう、緑好きなのかな。ジョーカーにそういう設定あったっけ…。
アーサーは、ずっと愛に飢えてて、ずっと地獄で独りだったけれど、周囲の環境(ここではゴッサムシティ)を地獄にして、周囲の人間を地獄まで引きずり下ろす…というか、人間が本来持っているけれども社会性によって封じ込められている残酷さ、残虐さを目覚めさせて「本来」の人間にしてやることで、みんなで一緒に地獄にいられるようになったんだな〜と思いました。地獄もみんなでいれば楽しいね!
自分ではどうにもできない、どうにかする気力もない、誰か自分の人生を救ってくれと心の内で叫んでいたアーサーが、自分を偽るのをやめて、大勢の人から認識されていく過程の描写が丁寧で、心が抉られていきました。病気の発作が出た時、最初は笑いたくないのに笑うという悲しい笑いだったのですが、自分を偽らないと決めてからは病気を病気として捉えるのではなく、笑っているんだから笑えばいいと考えられるようになったんだなと。アーサー、楽しそうに笑ってたね。
あと、病院のベッドで寝ている親を枕で窒息死させるやつ、どこかで観たんだけど何だったっけな…アーサーにとって、親殺しは自らを取り戻す第一歩でしたね。
ジョーカーを観た後、香港のデモのニュースを見たのですが、素顔を隠す、暴動で街が燃える等、ジョーカーの各シーンを彷彿とさせるような映像がありました。勿論、香港で起きていることとジョーカーが起こしたことは別物ですが、自分が映画のスクリーンで観た映像が、現実で起きていることのように思えて、夕食を食べている手が止まりました。
てかジョーカーになった後のスーツめっちゃ陽気で好き。私もあれ着て通勤したいし、あれ着て髪緑に染めて踊りながら通勤すれば、速攻で仕事辞められそう。仕事辞めたい。ジョーカーを己の退職理由に使おうとするな。
この映画を鑑賞した際の一番の思い出は、ジョーカーを観ながらいちゃいちゃしているカップルがいたり(よくこの映画観ながらいちゃいちゃできるな)、ポップコーンをクソデカ音量で食べる人間がいたり、小声で永遠と話し続ける人間がいたり、エンドクレジットでスマホを煌々と光らせる人間がいたりで、この映画館の治安はゴッサムか?と思ったことです。
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