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幸福なラザロの海のレビュー・感想・評価

幸福なラザロ(2018年製作の映画)
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わたしの中に、もう何年も前から存在している物語がある。一人の少女と一匹の獣がいろんな惑星に移り住みながら生きることを続けていく話で、頻繁に続きを考えるわけではないけれど、年に何度か、突然に彼女たちのことを思い出して、短編を書いたり絵を描いたりしている。少女の髪は長いときも短いときもあって、獣の姿は犬のときも猫のときもある。少女の名前を呼ぶ人はいないから、少女に名前はない。少女の呼ぶ獣の名はラザロという。

この映画を観た4年前の6月8日、広島は晴れていた。劇場は半分以上埋まっていて、観ている途中でふと、スクリーンを見つめるこのひとたちの顔を一人ずつ見てみたいなとぼんやりおもった。映画が終わったあと、わたしはメモに「存在しないひとのためにも物語はある」と書いた。存在しないひとという言葉は、わたしたちみんなのことでもあって、わたしたちを誰一人として指さないこともあった。わたしにとって、映画はずっと、そういうものでもあったのかもしれない。いつも画面の中にわたしがいて、わたしの愛する誰かがいた。4年前、わたしはラザロだったし、4年が経った今日、わたしはラザロを見ている誰かだった。わたしの望んでいる世界は、たぶん、わたしの生きているうちには訪れないとおもう。今わたしは生きていることがつらいし、愛するひとや愛するいのちが傷ついているところを見るのはもっとつらすぎて、耐えられない、耐えられないと思いながら耐えて、生きている。車の窓をあけて潮の匂いに抱かれるときや、玄関を出て冬の陽光に見つかってしまうときにおもいだす、4年前はまだ今に比べると、わたしにとって世界はうつくしくて、やさしくて、信じる価値のあるものだった。4年前、真昼の病室はゆりかごみたいだったし、祖父母の家のサンルームは霜が降りるような日でも頬がほてるほどあたたかかった、あの夏の日わたしは家に帰る道の途中で、ベルの大好きなMinnie RipertonのLovin' Youを聞いて泣いていた。今年は、明日死ぬかもしれないだれかが、「今日も生きています」と投稿するのをたくさん見た、それを毎日見守るしかないわたしは、わたしの大切なものを愛してちゃんと生きなければならないとおもった。それだけがわたしのできる善いことだとおもった。生きているのがつらいのに、うつくしい音楽に簡単にすくわれて、うつくしい映画に簡単にすくわれて、やさしいだれかの声や笑ったかおに簡単にすくわれる。だれかをすくうことはこんなに簡単なはずなのに、本当にたすけたいひとにだけわたしたちの手は届かない。わたしのしているすべてのこと、その中のどれかひとつでももしも誰かに届くのなら傷ついているあなただけに届いてほしい。わたしは傷ついているひとの味方でいたい。うつくしい魂とやさしい涙とつよい笑顔の味方でいたい。あなたはあなたを傷つけた誰かを憎んでいていい許さなくていい、いつかその怒りが消えてなくなるくらい今よりも遠くの場所へ行けていることをわたしはずっと祈る。いつもあなたはあなたのことで、あなたは、わたしのことだ。

わたしの中にずっとある、少女と獣の物語は、十年後も完結していないかもしれないけれど、始まりはこんなふうだ。ある日少女は宇宙船の中で目覚めて、ラザロがいないことに気がつく。ラザロをさがしてあてもなく惑星を歩いていると、地面に影が落ちて、見上げると、真っ青な空を大きな大きな鳥が飛んでいて、前方の森の中に墜落する。少女は走って森へ向かって、草をかきわけると、小さな小鳥が落ちている。少女は、その小鳥を抱きあげて、森を抜けて、海岸に出る。駆け寄ってきたラザロを撫でながら、少女は気を失ったままの小鳥を手のひらに乗せて、陽の光にさらして、こう言う。「かならず大丈夫になるよ。神さまがおしえてくれたの。」
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