シゲーニョ

ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3のシゲーニョのレビュー・感想・評価

3.9
前作では原題のサブタイが「VOL.2」なのに、邦題が「リミックス」と改悪されていたので、てっきり本作も「フィナーレ」とか「コーダ」とか、あるいは「ラスト・アルバム」とか、音楽系ヨリにしてくるもんだとてっきり思っていたのに、芸も工夫もなく(笑)、まさかの直球で来たので、鑑賞前ながら、やや拍子抜けしてしまったのだが…。

本作「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3(23年)」は続編として、そして、とりあえずの“シリーズ最終作”として、本当によく出来た作品だと思う。

もしも仮に世の中に、「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー検定」みたいな試験があったら、合格の答案。
1作目から続く物語のテーマ、細かなディテールも全て踏まえ、誰からも文句をつけられないような、正しい答えを出してきた。

監督・原案・脚本が引き続きジェームズ・ガンなのだから「当たり前だろ!」という、ツッコミ・意見は勿論あると思うが、カラフルな色彩設計にキャッチーなガジェット。ちょっと懐メロチックで絵面にピッタリな劇伴。そして、相変わらず、やさぐれているのにコミカルで愛嬌のあるレギュラー陣。
そんな彼らの行動原理に大きなズレはないし、「ホリデー・スペシャル(22年)」含む、マーベル・シネマティック・ユニバース(以下MCU)過去作で語られてきた、個々の問題・悩みにちゃんと向き合って、各キャラが成長してきたように見える。

本作には、厳重な警備システムを無重力のプカプカ状態にして無力化するとか、自己犠牲的な行動でピーター・クイル(クリス・プラット)の肉体が崩壊しかけるところとか、「アレ?どっかで観たぞ」的なセルフ・オマージュ、本シリーズのファンからすれば、観ていて安心の展開が結構ある(笑)。

2023年6月現在、未だ絶賛劇場公開中の筈なので、ネタバレを配慮して、本筋にあまり抵触しないところをちょっとだけ列記してみると…

先ず、1作目でガモーラ(ゾーイ・サルタナ)に「オレの星には、ケヴィン・ベーコンという名の偉大なヒーローがいたんだ」と嘯いていたように、ピーターの80年代サブカル好き(特に映画とTVドラマ)は今回も変わらないようで、「オレの名前はパトリック・スウェイジだからな!」と、異星人に拉致された1988年当時、「ダーティ・ダンシング(87年)」等の青春恋愛映画に出演してモテモテだった俳優の名前を出して、自分の魅力をビミョーにアピールしてみたり、顔面が変に突っ張った悪の親玉ハイ・エボリューショナリー(チュクウディ・イウジ)を一目見るや、「『ロボコップ』みたいなヤローだ!」と揶揄したりする。

[注:但し、1987年に公開された「ロボコップ」はR-15指定なので、当時8歳か9歳のピーターは劇場で観られないはず。仮にTVスポットかトレーラーで観ていたとしても、マスクを外したマーフィの顔が映るのは、凡そ1秒ほどのワンカットだけだ…笑]

常人とはかなり思考が異なるドラックス(ディヴ・バウティスタ)も、今回も「ソファーで寝るな!」と終始ツッコまれているし、ドラックスがポリポリ喰っているザンダー星の菓子「Zarg Nuts」は、「インフニティ・ウォー(18年)」で「オレは透明だ!」と主張しながら、なぜかスローモーションで食べてたヤツだし、マンティス(ポム・クレメンディエフ)にシェアしないのは、「ホリデー・スペシャル」で、マンティスがドラックスの菓子を無断で食べてしまったことを、未だ根にもっているからだろう。

ドラックスとマンティスの夫婦漫才のようなボケ&ツッコミも相変わらずで、ネビュラ(カレン・ギラン)含めた3人が敵の母船に侵入する際、調子外れの言動をとるドラックスにキレたネビュラに対して、マンティスは「He Makes Us Laugh and He Loves Us(彼はバカだけど、ホントは優しいのよ)」と妙な擁護をするワケだが、ドラックスは「そんなフォローの仕方されても、全然嬉しくないんですけど…汗」みたいな顔をしたりする。

また終盤、ピンチに遭遇したクラグリン(ショーン・ガン)が、操作に不慣れなヤカの矢を使おうとした時、突然現れた××××の幻が「Use Your Heart」と告げたのは、前作「リミックス(17年)」で××××が絶体絶命の時、ピーターに言った「オレが矢を飛ばす時は頭を使わない。I Use My Heart(心を使うんだ)」のリフレイン、オマージュだろう。

そして、観ていて一番萌えたのは、敵の母船内、一直線に伸びた長い廊下で、大立ち回りを見せる集団アクション。

近年のMCU作品では観られなかった、「アベンジャーズ(12年)」1作目、続く「エイジ・オブ・ウルトロン(15年)」にあった、メンバー揃い踏みの決めポーズをカメラがグルグル回りながらワンカットで見せる、その昂揚感。
立ち回りに入る時、スローモーションになって、カメラがグルッと回る瞬間、なぜか自分は猛烈に感動して泣けてきてしまうのだ(笑)。
[注:「リミックス」では決めポーズ直前に、マンティスが爆発物の破片に当たって気絶してしまい、未完成で終わる…]


本作「VOLUME 3」がシリーズの王道路線に見えるのは、「エンドゲーム(19年)」以降の、フェーズ4及びフェーズ5の主だった舞台、マルチバースとか量子世界のハナシでは無いから、余計にそう感じるのかもしれないし、もしかしたら本作のストーリーは、小児性愛や性暴力・差別を絡めたジョークをツイートしていたことが原因で、ディズニーから解雇される以前の2018年のプリプロ中に、ジェームズ・ガンが執筆していたモノが大本になっているのかもしれない。

まぁ、兎にも角にも、相変わらず“家族”のハナシである。

「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」シリーズを、乱暴ながら簡単にまとめれば、家族に問題があったり、家族を失ったヒトたちが、ことの成り行きで一緒に冒険するうちに、心を寄せ合い、疑似家族を形成していくハナシだ。

一応の主人公、ピーターからして、幼少期に母親が病死。父親エゴとは壮絶な親子喧嘩の果て、自らの手で死に至らしめ、不幸にも育ての親ヨンドゥも天に召されたことで、遅巻きながら“親との絆、その大切さ”を思い知る。

また、ガモーラ&ネビュラも、血の繋がりは無いがDVオヤジでエコテロリストのサノスに反目するし、ドラックスだって、愛する妻子をクリー人のロナンに惨殺され、一時は復讐に燃える狂戦士となっていた。

[注:MCUでのグルートは原作コミックと異なり、生い立ち等バックグラウンドが不明だが、1作目で最大の自己犠牲を払った後、再生し、ベビー・グルートになったことを鑑みれば、ピーターやガモーラたちが育ての親になったと考えても間違いでは無いだろう(笑)]

振り返れば、1作目からのレギュラーで、これまで、家族との過去の絆が描かれていないのはロケットだけ…。
だから本作「VOLUME 3」の主役と云えるほど、ロケットが大々的にフィーチャーされるのは当然の成り行きに思えた。

本作は開巻するや、檻に囚われたアライグマたちが映し出される。
その中で怯える、ちっちゃな一匹が若き日のロケット。
そんなロケットにグーッと巨大な手が伸びてきた瞬間、聴こえてくるのが、レディオヘッドの「Creep(92年)」。
ちょっともの悲しい感じのアコースティック・バージョンだ。
画面は転じて現在。ガーディアンズの新たなアジト、ノーウェアに変わり、「Creep」のところどころ、その一節をロケットが寂しげに歌っている。

「オレはウジ虫、気持ち悪い男さ/一体こんなところで何をしてるんだろう/オレはここにいるべきじゃない/(中略)完璧な体が欲しい/完璧な魂が欲しい/君は最高に特別な存在/オレもそうなりたかった」

ロケットは、あたかも大物のように振る舞い、いつも憎まれ口を叩いていたので、表面的にはマッチョな感じがするが、それとは裏腹に、内面は常に自己否定的で捨て鉢な感じがする。これまでの命知らずの行動は、自分を大事にしていない、その証だ。

そんな本当は傷つききった心、それを吐露しているかのように「Creep」が聴こえてくる。

愛らしい見た目のロケットだが、ひとたび裸になると身体中に痛々しい改造手術の痕跡が残っている。
そうした悲しい出自を気にしない風に装いながら、実は実験動物として切り刻まれた過去を呪っているのだ。
1作目で、自分を揶揄するガモーラとドラックスに、ブチ切れて叫んだ言葉は今でも忘れられない。

「オレを、Vermin(害獣)とか
 Rodent(ネズ公)とか呼びやがって!
 オレは自分をこんな風にしてくれなんて、
 誰にも頼んでいないぞ。
 何回も体を引き裂かれ、何回も戻された。
 ちっこい化け物になりたいなんて一言も言ってない!」

本作「VOLUME 3」は回想形式で、ロケットがなぜそんな風に思うようになってしまったのか、どういう体験をしてきたのか、その経緯を辿りつつ、ロケットの育ての親=創造主でマッドサイエンティストのハイ・エボリューショナリーが、ロケットに瀕死の重傷を負わせたことにより、ピーターたちがロケットの命を救うべく奔走する展開が並行して描かれていく。

[注:蛇足ながら、ロケットは1976年のコミック、「Marvel Preview Issue #7」に掲載された「The Sword in The Star」内、未知の惑星の原住民というチョイ役でデビュー。そこから6年余りベンチを温め、2度目のゲスト出演の依頼が来たのは1982年の「The Incredible Hulk #27」。遺伝子改造された喋れる動物という設定で、同エピソードでは、本作の回想シーンに登場するカワウソのライラ、セイウチのティーフスが同じように改造されたマブダチとして描かれ、ウサギのオヘアもロケットと対立するキャラ、盗賊団のボスとして顔を見せている]

ロケットに改造手術を施したハイ・エボリューショナリーが、またハンパないクズっぷりのオヤジで、宇宙に完璧な種族を生み出し、理想郷を実現することに取り憑かれたキチ○イ博士。あらゆる生物を実験対象とし、「データ取ったから、もう捨ててイイよん!」的な感じで、お役御免になったら容赦なく廃棄する、おぞましい行為を繰り返している。

また過度の身長コンプレックスなのか、あるいは常に他人を上から目線で見下ろしたい性格なのか、ソヴリンのお姫様アイーシャ(演じるエリザベズ・デビッキは公称身長191cm!!)と顔を突き合わせて話す際には、映像業界で「セッシュ」と呼ばれる踏み台を常用している。

まぁ、観ていて、その小物ぶりに一番イラッとしたのは、ハイ・エボリューショナリーがロケットに、とある実験を手伝わせようとするシーンだ。

ロケットは「Can’t(できない)」と拒否するのだが、それがアメリカ英語の発音「キャント」に聞こえたため、ハイ・エボリューショナリーは、イギリス英語の発音で「カント」と訂正、ダメ出しする。

こういう発音の仕方にもイチイチ突っかかってくる陰湿ぶりはホント観ていて辟易するし、MCU作品では「ブラック・ウィドウ(21年)」に登場した死の商人ドレイコフ以来、久々の心底憎たらしい悪役だとイイ意味で感心してしまった。
(ちなみに演じたチュクウディ・イウジは、ナイジェリア生まれの英国人で、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの舞台に立った経歴の持ち主。劇中でも端正なKing's Englishを話している)

そんな中、色々あって、生死の境をさまようロケットは、走馬灯の果てに三途の川みたいな世界で、大好きだったカワウソのライラ、その霊体に出会う。

「まだ、あなたには為すべきことがある」と説得するライラに、自暴自棄のロケットは「意味もなく作られて、勝手に捨てられた実験動物のオレに、もうすべき事はない」と自死する道を選択しようとするが、ライラは「私たちを創る手があるのなら、捨てられた者を導く手もある」と説く。

ロケットにしてみれば、ある役目を果たすために育てられたのに、結果、果たせなかったのであれば、自ら、人生の終止符を打つべきだと考えてしまったのだろう。
でもライラは、そんな経験をしたロケットだからこそ、目標を失い、この先、何のために生きればいいのか分からない者たちを導くことができる、その役目を担うべきだと願っているのだ。

そしてライラは続ける
「私の愛するアライグマちゃん。これはあなたが主人公の物語なのよ。あなただけが気づいていなかっただけ。すべての命に意味がある」と…。

そもそもガーディアンズのメンバーは、ほぼ全員が、様々な形で世間に踏みつけられた弱者、ほとんどが不可逆なまでに傷つけられてきた存在であり、そんな彼らが、高飛車で十把一絡げ的な支配者・権力者といった凶漢に抵抗して、ついに自らの人生と存在を肯定してみせる物語だった。

そして今回も過去作と同様に、ロケットは「もう逃げるのはやめた…」と決心し、育ての親ハイ・エボリューショナリーと戦うことになる。

また、本作「VOLUME 3」は、ロケットの「あるべき自分」を探す旅と、瀕死の怪我を負った「家族=ロケット」を救うための物語としてスタートしたが、最終的には、被検体として囚われていた子供たちや動物たちも救うという、要するに“仲間たちだけを救えばイイ”という話に止まらない、ドンドン拡張して、社会的包摂(ソーシャル・インクルージョン)へと至る展開になっていく。

これはザンダー星を救った1作目に戻ったようにも見えるし、「リミックス」、「インフニティ・ウォー」&「エンドゲーム」と毎回続いた苦難を乗り越えた分だけ、似て非なるもの、ガーディアンズが成長した物語にも思える。

それを象徴するのが、親友のロケットを殺しかけたアダム・ウォーロック(ウィル・ポールター)が手負いの状態の時、グルートが敵に塩を送るように、助け出すシーン。

ウォーロックがその理由を尋ねると、グルートは「誰もがセカンドチャンスを与えられるべきだ」と返すのだ。
(勿論、言葉はいつもと同じ感じの「I am Groot, Groot」で、ドラックスが通訳してくれたおかげで理解できたのだが…)

また、囚われていた子供たちを救い出し、慕われるドラックスを見て、ネビュラが語りかける言葉が泣けてくる。
「あなたは、デストロイヤー(破壊者)になりたかったのではなく、本当はいい父親になりたかったはずよ」

そんなネビュラも、ソーの首ハネでも、トニーの指パッチンでも抜けきれなかった悪しき父親サノスの呪縛から、ようやく解放され、自らの殻を破り、我が家ノーウェアを守り、子供たちを育てる指導者になっていく。
これは「リミックス」の最後、姉ガモーラから託された思い、「あなたのように苦しんでいる子供たちが宇宙には沢山いる。助けてあげてほしい…」に、やっと応えたことになるのだ。


さて、ここからはあくまでも個人的な意見だが…
「ガーディアンズ〜」における疑似家族とは、他者と触れ合い、互いに依存しあうことで、トラウマから立ち直る、謂わば、やるせない俗世間からの“避難所”のようなものだったのではと思えてくる。

そこは一時的な居場所に過ぎず、いずれ回復すれば、自分自身の人生に戻る必要があるのだ。

本作「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3」は最初、自己肯定感が低いダウナー状態だったロケットが、物語が進むにつれ、“ありのままの自分”でいることの素晴らしさを知り、ポジティブに生きることに目覚め、ノーウェアの街中に、曲を流すシーンでラストを迎える。

聴こえてくる曲は、フローレンス・アンド・ザ・マシーンの「Dog Days Are Over(08年)」。

「うだるような暑い夏が終わる/(中略)母の元へ、父の元へ速く走って戻るのよ/子どもたちの元に、姉妹と兄弟の元に帰りなさい/全ての愛と望みは一旦捨てよう/それらを全部抱えて、この世界で生き抜くことは出来ないのだから」

この歌詞は、ガーディアンズ全員の気持ちのように思えてくる。

だから、命を張ってまでロケットを助けようと戦い続けたピーターが、最後の最後、親友=疑似家族と共にいることよりも、自分の人生を立て直すことを優先し、地球に帰っていくのだ…。

そしてもう一つ。
「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」シリーズは、“親に対する反抗心で、宇宙銀河は回っている”、そんなことを感じさせる一大サーガだったということ。

ピーターも、緑と青の姉妹も、そしてロケットも、みんな親父に逆らうみたいな話だ。

決して口当たりのいいテーマではないが、いまだに子供や奥さんに対して強く出るお父さんが、本シリーズを観たら気持ちを改めるんじゃないかと、勝手ながら思えてしまったほどだ(笑)。

「イヤな親父は逝ってよし!」みたいな暴言を吐くような映画が、ファミリー向けエンタメ映画の王様ディズニーで作られたことは、とても素敵なことだと思う。


最後に…

本作冒頭のクレジットで、「Written and Directed by JAMES GUNN」と表記された時は、「色々あったけどMCUに戻ってきてくれて良かった!」と素直に喜んだが、観賞後しばらく経って、その背景が、ピーターの寝室の灯りが消えて真っ暗になる絵面だったことに気が付き、「ボクが作るガーディアンズの夢物語は今回で終わり!」という、ジェームズ・ガンからの惜別メッセージが、実は最初から送られていたのでのは?と、ついつい考え込んでしまった。

そう云えば、お馴染みのマーベルのモーションロゴも、普段のようなMCUメインキャラ勢揃いでは無く、ガーディアンズだけの、あたかも“最終回ご祝儀バージョン”のような感じだったし…。

さて、正直に申すと、本作「VOLUME 3」には、個人的に物足りないところがあった…。

これは、観る前にネットや雑誌の情報を一切シャッターアウトして、勝手に想像したストーリー展開、その思い込み過ぎが原因なのだが、自分をそう思わせたのが、たまたま目にした本作のTVスポットである。

流れてくるBGMは、レインボーの「Since You Been Gone(79年)」。
レコーディング時に「これはロックではない、ポップソングだ!」と主張するドラムのコージー・パウエルと、「どうしても収録する!収録に反対ならお前はクビだ!」と脅すリーダーのリッチー・ブラックモアとの間で、殴り合いの喧嘩まで起きたという逸話のある迷曲。

「お前がいなくなってから/お前が去ってしまってから/オレはおかしくなっちまった/オレが間違ってたのか?/もうダメだ、お前がかけた呪いを解いてくれ!」

この歌詞を聴けば、どうしたって、ガモーラを失った傷心状態のピーターの気持ちを顕していると思ってしまうだろう。

だから本作「VOLUME 3」は、ガーディアンズで出会う以前の時代からタイムスリップしてきた“もう一人のガモーラ”と、彼女を目の前にすると心の動揺を隠せないピーター、この二人の中年ラブストーリーを中心に展開するものだと、勝手に想像してしまったのだ。

しかし、「Since You Been Gone」が本篇で流れるのは、とある研究施設が隠匿された衛星オルゴスコープへとピーターたちが向かうシーン。
そう、劇中での歌詞が意味するところは、亡くなったガモーラではなく、死の淵に立つロケットを思う気持ちなのだ(!!)

そして終盤、ガモーラがピーターにボソッと言った一言、「I Bet We were Fun(かつての私たちは、きっと楽しかったでしょうね)」を耳にした時、夢見心地の状態から、いきなり現実に引き戻された感じがしてしまった…(笑)。

自分的には、「一生添い遂げたい」と思えるような運命の人との出会い、その恋の成就を綴る物語は非常に魅力的に感じるし、「親子」と同様に人生を豊かにする上で、大事な要素・テーマだと思っている。

「インフニティ・ウォー」の終盤、サノスとの戦いでピーターが執った行動。
あれはスーパーヒーローの原則に逆らった、極めて個人主義的な、愛する人を奪われたゆえの“怒り”の衝動、“人間らしい感情”が先立っての行動だった。

それを踏まえて、今回“もう一人のガモーラ”を前にして、ピーターは如何なる行動を執るのか。

今度はヒーローという己の立場を再認識して折り合いをつけるのか。
あるいはまた個人的利害を選択するのか。
ピーターが導き出すその答えを、本作「VOLUME 3」で観たかったのだが…。

だが、マーベル・スタジオのお偉いさんたちは、敢えてそこを大きくフォーカスしたくないみたいだ。

過去作で男女の恋愛を大きくフィーチャーしたのは、キャプテン・アメリカとべギー・カーター、「エターナルズ(21年)」のセルシとイカルスの二組ぐらいだろう。
[注:「スパイダーマン」はソニー・ピクチャーズの作品、「X-MEN」シリーズのウルヴァリンとジーンは20世紀FOXの作品なので除外します…]

今の時代、世界の危機を救うスーパーヒーローに、恋愛要素は御法度なのだろうか(爆)。