純の概念は曖昧で角度によって多元的だが、生命が胎内に宿った瞬間からその生命体は不純の道へ突き進む。
決して不純が悪い訳ではない。
不純でなくては過酷な世界で人間は生きては行けない。
時に人はその存在を疑う純潔を望みたくなる願望に苛まれ、その疑いを払拭する純に触れたとき忘れかけていた美の意識を想起する。
社会的秩序や道徳心を都合よく作ってしまったが故に自ら縛りつけた結果、宗教や神を創造し縋るのは人間がいかに醜く汚いものかを証明している。
残酷なことを言えば現実を見ずして夢や希望を持っても時間を浪費するだけで、大人は子供に『君には無限の可能性が有る』と無責任なビジョンを言う。
これは無限の可能性が有るのではなく可能性の方が無限にない訳で、逃れられない囚われの時間概念を無視した言い訳でしかない。
生きると言うことは無意識にも誰かを傷つけ何かを失わなければ生き物は生きてはいけない。
デンマークの哲学者〝セーレン・キルケゴール〟の言葉『勇気は人生を開く』が映画の中で引用されるが、主人公カタリナの勇気は痛々しくも純粋で彼女の行動を不純と思うのは社会秩序の固定概念に侵されているのかも知れない。
内に秘めた抑え目な感情の起伏は静かだが激情的、〝アリシア・ヴィキャンデル〟の初々しい表情が美しい。
残念なのはピュアな娘が大人の男と危険な行為に奔走し堕ちていくみたいな軽い予告に落胆する。
もし人間に純粋なものが残っているならば、それは絶望的に残酷な美しい本能。
脆く崩れやすく破壊の縁を彷徨い、暗闇が純を覆い尽くすギリギリの有限的な存在。
愛とか恋とか様々な感情云々以前に人間が生き物ならば、何が最も純粋に美しいか答えはひとつしかない。
〝セーレン・キルケゴール〟なら『心の純粋さとは、ひとつのものを望むことである。』の方が自分にはしっくりくる。
オーケストラを指揮する軽やかな指揮棒に魅せられるも、指揮棒を咥えることは残酷で絶望的で破滅的…、それが一心不乱に奏でる本能の美..★,