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暖流 (再編集版)のotomisanのレビュー・感想・評価

暖流 (再編集版)(1939年製作の映画)
4.6
 三枝子と佐分利。棲む世界が違うと佐分利が語るこの二人の愛に違いあるまいが求め合いつつ、明らかに食い違うような、寄り添うのが相応しそうでありながらしっくり来そうにないという危なげで不安げなぎこちなさが、今の若い人たちにはどう映るだろうと、変な気のまわりを覚えてしまった。
 御維新から70年、世間では帝冠様式なんて言う石積み風ビルの天辺に天守閣を載せたような威風を誇る建物が小江戸か小京都風の街並みに割り込んで建つのが流れの時分に、対して無味無臭な感じの機能性一辺倒な現代建築の別世界があって、俗塵を掃うような丘の上の病院に乗用車で乗り付ける事が通常の暮らしがある。世間は歩くのが当たり前、乗って路面電車の時代である。まさに棲む世界の違いの現れだが、もう一つの違いこそ、佐分利の言う違いである。
 それが主家と家人という事で、この時代には未だ幾らでもあった関係だ。近くて遠い両者には、世間体と釣合いを気にしたこんな二人のような話も結構あったんじゃないだろうか。もちろん佐分利が言い出す、この棲む世界とは、光子の手前の言い訳口に過ぎない。しかしながら、この一言こそその当時の普通の事として、幸せに生きるための大切な足掛かりである分相応、似合いという事であったろう。宵の本郷とか千駄ヶ谷あたりだろうか、夜道佐分利が光子に決心を告げる様子がよかった。当然いい場面であっても物語としてはつまらない。
 やはり、佐分利は茶の作法も知らぬ気に三枝子らと対坐してるのが良い。そして、分かり合っても添う事が叶わぬ道を並んで歩んでゆくのがいいと思う。なんであろうか、あたかもこの幸福を敢えて望まぬようなありかたとは。奇妙にも話の終わりの浜辺での二人のように永遠にああやって離れず付かずとも、そのまま居て欲しいような気持ちをそそる、不幸という言葉を敢えて飲み込んで終いたい、割り切れぬ感情を立たせる真に奇妙なひと時なのだった。
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