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田舎町の春のニューランドのレビュー・感想・評価

田舎町の春(1948年製作の映画)
4.5
初めて観てから30数年になるが、心の中の鬼を描ききった特異さとあらゆる映画地平への繋がりか無視かの不明な平明(風土というよりスタイル)無国籍なトーン、やはりその時のあまりのレベルへの驚嘆は、ずっと変わらず、中国映画史上の最高傑作と明言できるし、アジア圏でも、日本の溝口、韓国の金綺泳、台湾=香港の胡金銓、インドのS·ライ、イランのシャヒド=サレスらの最高作·極めつけの古典と肩を並べる作品である確信は揺るがない。しかし、それは腰を落ち着けて云いきれる類いのイメージではない、というより上記の他の作品と同様に、観てて安心·安定などとは無縁に、確たる真理·拠り所など瞬間にも存在しない如く、やはり他の作とおなじく、比較的ゆったりしたショット·展開ペースに反して、動物的反射·直感の根っこの動力は止められない、常にその不安定·感性·希求が映画の形を決めてる、所から来てると思う。変わり映えもしない静的に見えなくもない画面が映すものが、その行動·反映·位置関係の力·配置が、天才の差配で、じつは瞬時に感覚的に移り変わり、目まぐるしく鋭く動き続けてる、むしろそこでのどこかに留まらない誠実さこそが、逆説的に我々に安定を与える、と思う。凡庸な作品なら、加虐·被虐、倒錯の、退き安定した愉悦に浸る、内輪の波風に終始の心理描写に籠りきる、かもわからないのに、そのパターンは一瞬もなく、カメラワーク·カットの長さ·編集·凍ったように見えもする表情や手足の動きは、落ち着きにはまらない分、形とそれ以上のそれ自体を示してゆく。昔、初めて観たとき、成瀬+ドライヤー+ルノワールと書いたが、勿論中心はドライヤー、とりわけ遺作の『ゲアトルード』の姉妹作のようだ。
(シーンを結びつけ·短縮一体化ではない、)固まりとしての寄りの切返しはメイン位置ではなくスピード化に貢献せず、ワンシーンを成すカットは少しずつ前後したり·左右にフォローしたり·いつしか廻り込んでる移動が比較的目立たず織り込まれた·一見平板な退きめと、カットしてのその僅かめ寄りカットが、近接シーン間はDISや扉出入りや歩き行きのやや浅めどんでんで繋いで、シーケンスの繋がりを作っていってる。人物らは思慮や予定少なく、いきなり出会い·またはその場に来てて、カットに数人が瞬く収まったり、パンしての二分対応揃いと成ってるも珍しくない。勿論姿を隠して窺ったり·やり過ごす位置取りもあり、少し離れてるのの·対応や感じ取り別カット並行もある。ショットは寄りや野外を中心に、ローややや仰角めの、平板に見えて威厳を忍ばせたものが多い。影が一様でないニュアンスで自由な形で柔らかく不安げに覆ってるが、全体の形決めには、はたらかない。その中、思慮に入って後悔したり·自分の卑下と意図のない他人重視に入る前の、「義務·やり抜いてると同時の冷たさ」や、隠しを破る本音の欲望が、瞬間迷いを通さず、普通に出てくる流れ。それに対し展開前の「イライラ怒りっぽく」の性格から、対ひとりから複数間を目の当たりにし、自分を退き·小コミュニティの本分わきまえ次の行動への進み入る流れも、生まれる。その関係の交錯を実感してく中で、変化し落ち着いてゆくひとつ先のものへ進んでゆく。「死んでくれたら」と気づかず思ってた相手が、「自分よりここに(妻に)必要な、明るく強い人間(の現れとふたりの成就の為)に、自分は死んだ方が」の心境に進むと、剥き出しになりかねない欲望·願いは引きづられて収まり、脇にはいってゆく。ドラマもプロットも感動も、全てが殆んど意味を無くす。人物間の思わぬ手の握りや、胸を推すニュアンス(の違い)は、ドラマにも実際得ることへの、何の効果もないものだ。しかし、隠せない人間の本質·力として現れるそのあり方のニュアンスが突き刺さる。硬くこわばった作品·作風と見られがちかもしれない、しかし、映画的ルーティンに何の本当の意味もない、という方が正解なのだ。
川をゆく皆が協力して漕ぐ小舟上、滑る水面の表情幾つか、外で座り佇んでる中での周りの木葉の細部の嵐前の揺らぎ、といったルノワール的カットら、冒頭に何故かラストにあるべき人らの明るい去りゆくカット、モノローグ·ナレーションの前半に限った活用、終盤の誰もが一気一変収束に向かい翻りだす流れ、いろんな違和や変奏も、大胆が気付かれぬ位に染み込まされ、あるものはそのまま、あるものは別のあり方を観る側に併走させてもいる。「自分の代で、家財を殆んど失わせた」せいか、「結核」の発病でイライラ怒りっぽくなってるのか、まるで「精神病」か、「死ぬ勇気のない」者と、「薬買い届け」らの「義務」らで逃げ出せず、「繰り返し」の感謝だけに対し、「生きる勇気のない」その妻。そこへ、夫の少年時からの「級友」であり、郷里で妻と未来を約した幼馴染みでもあるも仲人見つけられず機を逸してた(待てぬ妻が今の夫に嫁いだ)関係でもある、夫婦にとって共に10年ぶりの、嘗ての医学生·いま内地を走り廻ってる医師が、やって来る。妻と探りあい、好意の変わらずを、進めて嘗ての今の「従う」(本人や義妹の結婚話に関し)だけの、意味を問い直してる内に、夫やその明るい妹にも、今までと異質の活力と内実が伝播してゆく事から、転がり出すストーリー。ヨーロッパ風に見えて、そんなに感性·理性に染まらず、アジアの足掬いにも引きずられず、重くも軽くも滑らかでも·のろくもなく、決まった味のない本当の味わい。真実を偶然つかれ、ギョッと反応したり、または深い理解でそれ云われ、逆にそのままより太い流れにはいったり、決まったストーリーもののニュアンスとは別物。
日中戦争ほぼ終わり·余波が残ってる頃か、戦禍で荒れた田舎町へ、疎開から戻るとやはり屋敷の大半は破壊され、心と身体を病み、新婚2年の妻との関係も実際と心の距離が離れ、只無気力な先細りと無力化に囚われて6年の名家の(若)主人。心を砕く·残ってる老使用人や、隆盛の頃の記憶なく·現状にこだわりなく明るい16歳の高校生の妹をもってしても、近くの城壁が残る古城の散策が気晴らしでしかない今の感覚。主人の嘗ての級友が、有能で国に尽くしてる医師として、再会に訪ね来る。10年ぶりだったが、彼は故郷で妻と将来を約してた仲で、踏みきれないままに別の道へ共にいつしか。消息も断ってて、再会に驚く男女、周りには見せずも。しかし、現状の停滞に対し、2人はまた、今度はストレート·強く燃え上がる芽を手にし合う。昔は幼かった妹も、男と息が合い、兄はその方の縁談を進めんとす。しかし、ふとした事で妻と友の健全な、自分では持てない燃え上がる芽を感じ取り、近年初めて心いびつから脱し、2人の為に死んで役立とうとする。それは2人を逆に廻し(目覚めは半強制的に思い込んだに過ぎないとしても)、いまを越えて高く生き始めんとし出す事へ。男は直ぐに去る事にするも妹の上海進学校探しを約し、早期再訪を約し、夫婦は倦怠を振り捨て、境のない新鮮を得てく。
秀作·傑作の類いは映画の世界でも決して少なくない。しかし、真に偉大なものとは、映画として隙なく閉ざされ·完全に向かって収束し、かつ作品としてあらゆる世界に開かれた·規定が無意味な、ごく限られた所にのみ存在しているのを指す。カメラや光景の映画美も、筋立て·観念への感動も、瞬間とスケールの衝撃も、究極には関係ない。そういった認識しにくい内実と共に、意外にここでも評価が圧倒的とはいえないは、作品を囲む情況で仕方ないことかもしれない。30数年前予備知識なく殆ど白紙の状態で観た時の発見の信じ難い歓びは、その後本国でも最高作として大方から認知されたという身構えから、再現はもうない。アメリカ人の一般の人でも崇める『市民ケーン』を、それを聞いてから観た日本人でこれを映画史上のベストワンどころか20にも30にも入れんとするは皆無なのと同じ事情だ(例外的に、戦地で戦利品にあった出来上がったばかりの『~ケーン』を観た小津は戦争は負けると思ったそうだ)。

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