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キートンの北極無宿の河のネタバレレビュー・内容・結末

キートンの北極無宿(1922年製作の映画)
3.2

このレビューはネタバレを含みます

初期西部劇、その中でも西部劇の草分け的存在であるウィリアム・S・ハートの映画をパロディした作品らしい。荒野を雪国に変え、バスター・キートンはカウボーイ的な振る舞いを続けるが全て裏目に出る。それは西部劇を皮肉ると同時に、自分が西部劇的な男になれないということを示しているようにも見える。バスター・キートンは取り返しのつかないほど状況を悪化させた後映画館で起こされる。この映画がバスター・キートンが西部劇を見ながら見ていた夢だったことが明らかになる。「これで終映ですよ」というバスター・キートンを起こす清掃員のセリフによって、この映画の放映も終わる。

バスター・キートンの短編では、バスター・キートンのアクションのみによっては状況は解決しないというルールがある。状況を解決するのは、バスター・キートンが映画内の現実を映画的なトリックを用いて変容させる時のみとなっている。バスター・キートンの見た夢という設定であるこの映画において、現実では起こるはずのない映画的なことを起こすことも可能である。しかし、この映画において夢であるということは、いつもバスター・キートンを追いかけてくる警官達がいないということだけを意味し、バスター・キートンは現実でできないことをするのではなく、現実でしてはいけないことをするだけに留まる。この映画でも、バスター・キートンは映画的な魔術を禁じられていて、だからこそ彼は状況を解決できずただ悪化させるだけとなっている。

同時期に作られた『Day Dreams』『Cops』は、どちらも映像的トリックを禁じられアクションしか使えなくなったバスター・キートンがスターとしての位置から転落するという意味に見えるバッドエンドを持つ。映画という夢から覚めるというオチを持つこの短編も、同じようにバスター・キートンの当時おかれていた状況を反映したもののように思える。さらに、バスター・キートンの映画は監督、映画の外の存在としてのバスター・キートンが、俳優、映画内の存在としてのバスター・キートンのおかれた状況を操作するという構造を持つ(『One Week』から『The Love Nest』までの作品は全てバスター・キートンが監督脚本の両方を担当している)。その観点で見ると、この映画はバスター・キートンが自身の映画を終わらせ、劇場から追い出すものになっているようにも見える。

この映画は、バスター・キートンがアクションしかできず、状況を悪化させることしかできないという同時期の作品の類型の中でも、その極地にあるような作品となっている。それも考えれば、当時のバスター・キートンは相当追い込まれていたんじゃないかと思う。
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