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キートンのハード・ラック/悪運のTnTのネタバレレビュー・内容・結末

3.6

このレビューはネタバレを含みます

 物語の入り口と出口がこんなに真反対である作品があるだろうか?それはいい意味では不意をついて、悪い意味で一貫性がないのだが。短編なんでそこはサクッと見れた。一応自殺したい男の話なんだが、こうも脱線できるものなのか、物語というのは。

 「仕事を失い、彼女にフラれ、運気が下がっていた」の字幕から、キートンは何かにつけて自殺を試みる。しかし、彼が死のうとする出来事はことごとく彼を裏切る。自殺しようとする運すらも落ちているという高度なシャレ笑。そんでもって彼は大金をつかむチャンスを目の前にすると、すぐにそのチャンスを掴もうとするのだ。いやいや自殺わいというツッコミもつかの間、彼は魚を釣ったり、狐狩りに行ったり、強盗に出くわす。もう滅茶苦茶だ笑。またラストが秀逸で、好きになった人に再びフラれた後、彼は何故か高台からプールに飛び込み、しかし失敗し、地面深くへと落ちて行く。そして数年後、地球の反対側で中国人と結婚して地面から出てくる、と文字にするだけで支離滅裂だ笑。

 自殺できそうな物があるから自殺する。お金が手に入るからアルマジロを探す。狐狩りがあるから猟友会に行く。中国人と出会ったから結婚する。こう書いてわかるように、彼には何の目的意識もないのだ。自殺したいから自殺するというようなトートロジー。もしくは、寺山修司の「わたしのイソップ」の一節のように、「肖像画に、まちがって髭を描いてしまったので、仕方なく髭を生やすことにした。門番を雇ってしまったので、門を作ることにした」というような目的と手段、因果の履き違え。ほぼシーンの状況に振り回される彼は、ある意味人生の哲学を教えてくれる。主体性を失い、その場その場に合わせた機械的反応、そして予想もつかない結末という、まさにそれが人生と言わんばかりに。それもあまりに受け身に生きすぎた人の悲劇か喜劇か。チャップリンのように自ら場を変えていく立場とは真反対だなと思った。

 もう一つ、寺山修司の「わたしのイソップ」から引用。「ただひとつ、そんなわたしの不条理は、わたしがかなしんでいるのに、かなしい事が起らぬことだ」。キートンには、この葛藤はない。何故なら、彼はおきまりのストーンフェイスでもって何の感情もないからだ。また、もしかしたらキートンも既に、かなしみとかなしい出来事のあべこべさを表現できないとわかっていたのではないだろうか。かなしさが何故かなしいのかは、重力が何故あるかと聞くような謎に包まれたままである。ラストのキートンはつまりフラれた悲しみを持ってそれを表現するものとして、そこに高台があってそこに重力があるから飛ぶという、悲しみの謎に身投げしたと言えるのかもしれない(もちろん、キートンも寺山も時代は違うわけで、まして寺山の影響をキートンが被ることはない。これは自分があべこべになった証拠である)。もうちょっと何か適切に言語化できたらと思う次第でした。

 また関係ないが、最近聴いた南正人の曲のフレーズ、「こんなに遠くまでまた来てしまった」というのが、この映画のラストにふさわしい一語で、まぁ振り返ってみて誰の人生にも当てはまるいい言葉だなと思ったりした。
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