シゲーニョ

インディ・ジョーンズと運命のダイヤルのシゲーニョのレビュー・感想・評価

4.2
本当にどうでもイイことだが…(笑)
本作の邦題が「インディ・ジョーンズと運命のダイヤル(23年)」と知った時、スゴ〜く違和感を感じてしまった。

本シリーズは2作目「魔宮の伝説(84年)」以降、全ての原題が「Indiana Jones and〜」で始まるが、邦題は「インディ・ジョーンズ/〜」で表記。
原題の「and」を敢えて訳さないできたワケだが、本作の邦題は「インディ・ジョーンズ“と”…」。

なぜか、接続詞の“と”が付いている。

これは大変穿った見方だが、本作「運命のダイヤル」の製作・配給元が、過去4作のパラマウント・ピクチャーズから、ディズニーに替わったことが起因しているように思える。
[注:製作・配給元の変更は、2012年、ルーカス・フィルムがディズニーに買収されたことによる影響]

ディズニーアニメのタイトルって、「モアナと伝説の海(16年)」「ラーヤと龍の王国(21年)」「ミラベルと魔法だらけの家(21年)」など、自分だけかもしれないが、邦題に接続詞の“と”が付いている印象が強い。
なので、日本の配給会社ウォルト・ディズニー・ジャパンがそれに準じたのでは?と、勝手ながら邪推してしまったのだ…(笑)

(まぁ、アニメや子供向け映画の邦題は、総体的に主人公の“名前”や物語のキーとなる“場所・モノ”といった固有名詞を使用するものが多い。原作小説に準じてだろうが「ハリー・ポッター」シリーズとか、原題が「Frozen」なのに邦題が「アナと雪の女王(13年)」など、そのまさに好例と言えるだろう)

さて、本作「運命のダイヤル」は15年ぶりのシリーズ新作。
前作「クリスタル・スカルの王国(08年)」が、それ以上の19年に及ぶ長い歳月を経てのカムバックだっただけに、特段驚くべきことではないのだが…。

ルーカス・フィルムを買収したディズニーにしてみれば、先ずはレイを主人公とする「スター・ウォーズ」新3部作を製作。そして、お次の番は当然、もう一つの巨大フランチャイズ「インディ・ジョーンズ」を可及的速やかに起動させることが、自分たちに課したタスクだったのだろう。

一時期、今度のインディの新作は、クリス・プラットかブラッドリー・クーパーに主役交代する「リブード版」という噂が流れたが、2015年10月にハリソン・フォードの続投が発表。

そしてクランクイン前にハリソン・フォードは、こう述べている。
「When I’m Gone, He’s Gone. It’s Easy.
(ボクがインディ役を辞めれば、インディも銀幕を去る。とても簡単なことさ…)」

初めて「インディ」シリーズを手懸けるディズニーがそれを望んでいたかどうかは別にして、この発言をそのまま受け止めれば、本作がハリソン・フォード=インディ・ジョーンズの“引退への花道”みたい作品になることは、予め決まっていたのだろう。

本作は前作「クリスタル・スカルの王国」から約12年後、アメリカとソ連が「宇宙開発競争」に明け暮れた1969年を舞台に、旧友の娘ヘレナ(フィービー・ウォーラー=ブリッジ)から持ち掛けられたとある話を機に、秘宝「アンティキティラのダイヤル」を求め、インディが“最後の冒険”に挑む姿を描いている。

そういった意味で、本作「運命のダイヤル」は、ハリソン・フォードのインディ引退のご祝儀と言わんばかりに、表層的ではあるが、40年余り続いたシリーズへのリスペクトが、そこかしこから溢れ出ている。

インディを取り巻く人物も、いちいち歯向かう強気な女性、口だけ達者な子供、インディが手に入れたアイテムを後から横取りする悪者と、これまでシリーズに登場したキャラの集大成だ。

だが、演じるハリソン・フォードは本作撮影時78歳。
劇中のインディは70歳という設定。
(ちなみに「最後の聖戦(89年)」で父ヘンリーを演じたショーン・コネリーは、撮影当時58歳…)

前作「クリスタル・スカルの王国」でも観ていて鼻についた“スタントダブル”とか、「タイタニック(97年)」あたりから流行しだした“顔だけ挿げ替えCG”とかは、とりあえず脇に置いといたとしても、これだけ高齢の役者が主人公のアクション活劇は、これまでに殆ど無かっただろう。

しかし、今回のインディは、いつものように宝とロマンを求めてワクワクしながら冒険をしている“少年”のようなインディとは異なり、どこか寂しそうで、切ない雰囲気を身に纏っている。

本作の中盤、長年の発掘仲間で友人でもあるサラー(ジョン・リス=ディビス)のボヤキ、「インディ…、砂漠や海が恋しいよ。毎朝、目が覚めるたびに今日はどんな冒険が起こるか、ワクワクしていた日々が懐かしくて仕方がないんだ」に対して、インディが返した言葉「Those Days Have…Come and Gone(あの日々は過ぎ去り、もう戻ってこないんだ… )」を劇場で耳にした時、本当に、本当に泣けてきた…。

多分、1作目「レイダース/失われた《聖櫃》(81年)」からこの最終作まで、“同じ一人の役者が主人公を演じ続ける”という稀有なシリーズを、自分がリアルタイムで観続けてきたためだろう。

シリーズと共に同時代を生き、齢を重ねてきた自分個人の思い出までも、このインディの台詞一言で一瞬ながらフラッシュバックしてしまったのだ。(こんな映画体験は、かつてスタローンの「ロッキー・ザ・ファイナル(06年)」を観た時以来の、僅か2回だけだ…)

本作で描かれるインディは、時代に取り残された存在だ。
冒険者気取りの考古学者は、アポロが月に行った現在(=1969年)では時代遅れ。
たしかに、60年代末は、ジェット機で世界中を旅することが出来る世の中。もはや地球上に未開のジャングルとか、秘境が存在しなくなり始めた時代だった。

それを象徴するのが、アポロ11号月面着陸の記念パレードでN.Yの街中が浮き立っている描写だ。
その中をジョン・ウェインが演じたフロンティア・ヒーローばりに、馬に乗って疾走するインディ。
馬で逃げるインディをバイクで追いかける悪漢という構図は、「過去」を象徴する馬と「現代」を象徴するバイク、その対比に見立てることも出来る。

誰もが宇宙に思いを馳せる時代で、ただ1人「歴史」にしがみつく男インディ。

最後の授業、その教壇に立っても、誰一人「歴史」には興味を示さず、自分の講義など生徒全員、上の空…。
だから大学の定年退職記念でもらった“時を進める=未来へと向かう”時計を、「フン!こんなもの…」と見も知らぬ他人にあげてしまうのだ。

大学からも追い払われ、自分も、ついに“遺物”になってしまったと考えるインディ。

また本作では、これまでのシリーズでは殆ど無かった、インディの知人が死を迎える。
それはインディが予期せず、巻き込んでしまったことだ。

インディが働くハンターカレッジの先生たちや、エーゲ海の海底に眠る石板探しを手伝ってくれた旧友レナルド(アントニオ・バンデラス)の悲しい退場。
過去作でインディの仲間が殺されるのは、「魔宮の伝説」冒頭での、ナイトクラブのボーイに化けた相棒ウー・ハンしかいなかったのに…。

そして、家族も自分から離れていってしまう…。
1944年のナチスとの攻防から、現代(=1969年)に転換しての最初のシーン。
インディの住むアパートメント、その部屋のテーブルにはマリオン(カレン・アレン)と離婚協議中の書類、棚には戦没退役軍人に寄贈される「折り畳まれた星条旗」と誰かの遺影が置かれている…。
(但し、その後の、ヘレナに「あなたは学者だけど、家族には詳しくないのよね」とチクリと言われるシーンは、不謹慎ながらちょっとだけ笑ってしまったのだが…)

考古学者としても、冒険家としても、夫・父親としても自分の存在価値を見出せなくなったインディ。

だから、終盤のクライマックス、時間の裂け目によって過去の世界に飛び込んでしまったインディは、自分が、唯一没頭できた考古学…その世界に留まって死を迎えたいと考えてしまうのだ。

眼前に広がるのは、晩年にインディが時間を費やし研究に取り組んできた、紀元前212年、カルタゴを攻めるローマ軍によるシラクサ包囲戦。

家族を失った、他人から何も求められない、もう探す物も見つからない…。
そしてこれからも延々と時が刻まれていく中、どう生きていけば良いのか分からない老人となったインディ。

過去に留まることしかないという選択をしたのは、そこが唯一の生き場所だと思ったのだろう。
目の前に、自分が人生をかけて追い求めてきた“真実”があるのだから…。

自分を必要とされない現実世界に戻るよりも、例え過去であっても自分が好きな場所に残りたい。

これはスピルバーグが監督した「未知との遭遇(78年)」の結末に似ている。

「未知との遭遇」の主人公ロイは、社会と妻子を捨てて夢を追い続けた結果、マザーシップに乗って宇宙の彼方へと飛び立つ。これは自分だけかもしれないが、劇場での初見時、自閉的で反社会的な成長拒否の物語に思えた。まるで子供が自分の好きな世界、永遠に成長しないピーターパンのネバーランドに閉じ籠もったように見えたのだ。

スピルバーグもこの結末にしたことを相当悔やんだらしく、後年、6人の子供の父親になった時、「夢のために家族を捨てるなんて、今のボクには考えられない」と語っている。
それに反省して作られたのが、子供の世界に引きこもることを自らの意志で取り止め、大人への階段を上がる少年エリオットを描いた「E.T.(82年)」である。
また、ちょっと乱暴なまとめ方になるが、「フック(91年)」や「ジェラシックパーク(93年)」も、四十過ぎの子供っぽい男が、大人として、父親としての自覚を持つまでの話だったし、「レディ・プレイヤー1(18年)」は「バーチャル(自分の好きな世界)に閉じ籠もってばかりじゃなく、ちゃんと現実世界を生きよう!」というメッセージが込められていた。

本作の監督ジェームズ・マンゴールドは公開直前、「誰もインディのような男がヒーローだと思わない時代をテーマにした」と述べている。
この言葉を真摯に受け止めれば、「3時10分、決断のとき(07年)」や「LOGAN/ローガン(17年)」、「フォードvsフェラーリ(19年)」など、独善的な性格や加齢によって社会や時代から阻害され、自分の居場所を見失いそうになった男、その最後の矜恃を描くことに長けたマンゴールドにとって、本作は非常に適した題材だったと言えるだろう。

そして、本シリーズの創始者の一人、スピルバーグの精神をちゃんと受け継いだ作品になっているように思える。
だから、本作でインディは、ワクワクしながら冒険していた少年時代をようやく卒業するのだ。
それは引退などいった“セレモニー”ではなく、齢七十にして大人の男に生まれ変わる“イニシエーション”の物語なのではないだろうか…。

だからといって、多分続編は作られないと思うが(笑)、本作の今後、インディの心が年齢と共に枯れていくとは思えない。

そう思わせたのはネタバレで大変恐縮だが、ラストカット、帽子へと収縮していくアイリスアウト(丸ワイプ)だ。

インディのアイコンの一つとも云えるのが、英国王室御用達の老舗帽子メーカー、ハーバート・ジョンソン製のフェルト・ハット、ハリソン・フォード言うところの通称“フェードラ帽”。

本作「運命のダイヤル」でも度々、フェドーラ帽が印象的に映し出される。
ナチスの列車内で、帽子と鞭が入った鞄を発見するインディ。
サラーから空港で渡される鞄の中に入っている帽子を見たインディ。
その時のインディはいずれも満面の笑みとなり、その表情から、やる気が漲ってきたかのように思えた…。

ヘレナも回想シーンで、父バジル(トビー・ジョーンズ)の手からアンティキティラのダイヤルを持ち去るインディに、部屋に忘れた帽子を手渡す。
これは父の人生を狂わせたダイヤルを、インディの力でなんとかして欲しいという願いが込められているのだろう。

そして、終盤、飛行機からパラシュートで飛び降りるシーンで、ヘレナはその直前に、インディの頭から帽子をとり、飛ばされないようにしっかりと掴む…。
「これからが本番!まだまだ冒険は続くのよ!」と言わんとしているかのように。

そう考えると、劇中、序盤でヘレナがインディをからかった台詞、「私、帽子が大好き!年が少なくとも2歳ぐらい若返ったように見えるから(笑)」は、クサっていたインディの反骨心を煽る意味で、ムチを入れたかったからなのかもしれない。

「最後の聖戦」を思い出してほしい。
戦車とのバトルから一命を取り留めたインディが、クタクタになって座っていたところ、父ヘンリーに「そんなところでのんびりするな!早く来い!」と叱咤された時、インディの足元に、まるで“やる気”を注入するかのように、風に吹かれて帽子が転がってくる。

また「クリスタル・スカルの王国」の冒頭では、車から放り出されたヨロヨロのインディが、地面に落ちた帽子を被ると、シャッキとした感じのシルエットが映し出される。
そしてエンディングで、帽子を被ろうとする息子マットから、「お前にはまだ冒険は早い」と言わんばかりにフェドーラ帽を取り戻すのだ。

考古学者として、冒険家として、そして正義のヒーローとしてやるべきこと。
上手く云えないが、その思いをシンボライズしたのものが、インディの帽子“フェドーラ帽”なのだと自分は思う。

なので、最後の最後、アイリスアウトで強調される帽子を観た時、頬を伝う涙をおさえることは出来なかった…。

このレビューの冒頭にも記したが、インディと共に自分も40年ほど齢を重ねてきたワケで、今では「老害」と云われるくらいの年齢に差し掛かってきた…。
そんな自分がこのラストカットを観て、「ジジイでも冒険はできるぞ!未来に向かって未だ成長できるんだ!」と、幾分思い込み過ぎかもしれないが、なんか背中を押されたような気がしたのだ。

だから、本作の北米での観客、4人のうち1人が55歳以上なのだと思う…(爆)

まぁ、正直に申せば、涙腺が止まらなかったのは、その直前に、サラーが気分のイイ時に歌う、19世紀末に人気のあったコメディ歌劇「H.M.S Pinafore(軍艦ピナフォア)」の劇中曲「A British Tar is a Soaring Soul」を、久しぶりに聴けたこともあるだろう。

「イギリスの船乗りは意気高く、どこまでも気ままな暮らし〜♪」と歌うのだが、「レイダース」でも2回ほど自慢ののどを披露している。1回目はナチスが採掘している「魂の井戸」が間違った場所だと判明した時。2回目は港での別れ際、マリオンに「奥さんと子供たち、そしてあなたに感謝を込めて」とキスされた後、大興奮して大声で歌っていた。

そして、もう一つ、全く予想もしなかったサプライズ。
同じく「レイダース」で印象深かった“どこが痛い?ここが痛い”と言いながらキスするシーンの再現である。

カイロから脱出したインディとマリオンが船内で束の間の安らぎの最中、マリオンに「痛いところはないの?」と聞かれたインディは「ここだ…」と左肘を指差す。すると、その肘に優しいキスをするマリオン。次にインディは聞かれてもいないのに「ここだ…」とおデコを指差す。言われるまま、笑みを浮かべながら、おデコにキスするマリオン。

今回はそれにツイストを利かせて、ノスタルジーだけでは終わらない、本作中、屈指の名シーンとなっている。


最後に…

鑑賞済みの方々からあまりイイ評判が聞こえてこない、フィービー・ウォーラー=ブリッジが演じたヘレナについて、チョッとだけ記したい。

敵か味方か謎な雰囲気で、お金に執着しているように見えるし、結婚詐欺師だ。
恐らくだが、プレストン・スタージェス監督のスクリュー・ボール・コメディ、「レディ・イヴ(41年)」でのジーン・ハリントン(バーバラ・スタンウィック)をモデルにしているのだろう。

「レディ・イヴ」のジーンは、父親とコンビを組む詐欺師で、アメリカに向かう豪華客船の中でビール会社の御曹司チャーリー(ヘンリー・フォンダ)をカモのターゲットとして狙う。
ただし実はチャーリーは冒険家でもあり、“ヘビおたくの研究者”でもあるのだ(!!)。
カード賭博で大金を巻き上げようと近づいたジーンだったが、なんと二人は相思相愛の仲に…。しかし、ひょんな勘違いから、ジーンはチャーリーを逆恨みしてしまう展開になる。

また、監督ジェームズ・マンゴールドが、自身の中で大好きな映画に挙げている「ペーパー・ムーン(73年)」も、モチーフの一つになっているのかもしれない。

「ペーパー・ムーン」は詐欺師の男モーゼ(ライアン・オニール)が、交通事故で亡くなった恋人の娘アディ(ティタム・オニール)を、ミズーリに住む伯母の家まで送る約束をするも、事故の慰謝料をせしめてトンズラしようとしたところを、アディに「そのお金は自分のものだ!」とツッコまれ、嫌々ながら車で送り届けることで始まる、父娘のように歳の離れた詐欺コンビのロード・ムービー、その道中で互いの絆を深めていく物語だ。

そして、ヘレナは「レイダース」でのマリオンに近しいキャラクターとも云えるだろう。

マリオンが「オヤジがガラクタ集めに熱心なお陰で、自分の人生はボロボロ」と嘆いていたように、ヘレナも「父親がアンティキティラのダイヤルにご執心過ぎて、家族の人生が狂わされた」と思っている。
またマリオンとヘレナ、互いにとっての遺物の価値とは、その魔訶不思議な力ではなく、いくらで“売れる”かであり、人生をやり直すための「商品」に過ぎない。本作の劇中、「私が信じられるのは現金だけ」というヘレナの台詞があるくらいだ。

但し、両者共に親父を恨んでいる素振りはなく、むしろ、理由はどうあれ、女性に対してだけなのか、都合が悪くなると、途端に行方をくらますインディだけには、ちょっとだけ怨み言があるようだ。
その証拠というワケでもないが、本作で、ヘレナと云十年ぶりに再会した時、「私のこと覚えてる?」と問われたインディは、「何をしたにしても、まず謝罪するよ」と答えている。

だから、あの場面でのヘレナのインディへの一発は、個人的にとても合点がいった(笑)。

過去作でも、インディは結構ヒロインから怒りのパンチを喰らっている。

「レイダース」では、10年ぶりに再会したマリオンに、それまでの恨み辛みを込めた一発を喰らっているし、「魔宮の伝説」では助けたはずのウィリーに、まだカリの呪いが解けていないと思われ、平手で引っ叩かれる。

(但し、「最後の聖戦」ではこれまでのパロディなのか、エルザにオーストリア式のお別れとして熱いキスをもらった後、ナチスの鬼隊長フォーゲルに「じゃあ、今度はドイツ式お別れだ!」と、思い切りゲンコツでブン殴られる…笑)

まぁ、正直、本作でヘレナがインディにワンパン入れるのが、終盤に来てのあのタイミングになるとは想像できなかったが…。

たぶん、観ていてヘレナにシンパシーを感じられないのは、彼女がこれまでのヒロインと違って、インディから守られる存在ではなかったという点だろう。
歴代のヒロインたちも皆、自立した女性で強気で頑固だったが、展開が進むうちに、最終的にはインディが守らなくては、と思うような存在になっている。

それに比べ、ヘレナは過去作でいうところのお宝の秘密を解く重要人物、インディの父ヘンリーや、友人オックスリーの役割を担っている。

これまで恩師レイブンウッドや父ヘンリー、友人オックスリーたちの研究の賜物“手帳”などを基に、インディは己の知力をプラスして、現場でほぼ一人、お宝の秘密を暴いてきたのだが、今回は、父親の教育もあり、古代言語や歴史に精通しているヘレナとのバディ・ムービー的なティストになっているため、インディが傍観者のように見えてしまうシーンや、ヘレナが機転を利かせたお陰でインディが助けられるシーンが度々ある。

公開初日に鑑賞したので、だいぶ記憶が薄れてしまったが、インディが持ち前の明敏な頭脳を見せつけたのは、中盤、石板の重さを疑問に感じ、火をつけ、蝋を溶かしてアルキメデスの墓の場所を探り当てるところと、アルキメデスの墓で、毒を放つ水を利用した通路を発見するところくらいだったような気がする。
(終盤のクライマックスの「アルキメデスの時代より○○が××して座標が変わっている」発言は別にしてだが…)

あくまでもインディが主人公でありヒーローとして考えている、ほとんどの観客からすれば、年老いてアクションの立ち回りが数多く出来ないとしても、ヘレナの存在で受動的立場に追いやられたようなインディは、観ていてあまり気分がアガらなかったのだろう。

しかし、あくまでも個人的意見だが、フィービー・ウォーラー=ブリッジが主演&脚本を手掛けたTVドラマ「フリーバック(16年〜)」や「キリング・イヴ(18年〜)」を観ると、それらに共通するテーマが、自由奔放なタイプと堅物なタイプの二人が反発しあいながら、互いに理解を深めていくことで起きる“ケミストリー”なので、それを巧みに演じ、描いている点を考慮すれば、本作「運命のダイヤル」のヒロイン的存在、ヘレナのキャスティングはそれ程間違ったものではなかったと思う。

そして、もう一つ書かせて頂けば、やっぱり“アレ”が無いのはとても寂しかった…。

パラマント・ピクチャーズのロゴから、実景の山や、山を模したものにディゾルブして物語から始まる、これまで恒例となっていた“アレ”である。

まぁ、随分昔に、ジョージ・ルーカスが、前作「クリスタル・スカルの王国」で、プレーリー・ドッグの巣穴にオーバーラップした後、「車が山を崩してしまったから、以後のシリーズではもうやらないよ!!」と言及していたそうだが…。

今回は、ディズニー創立100周年記念のロゴ→パラマウントのロゴ→ルーカス・フィルムのロゴという順番で始まる。

この順番はさておき、本作で製作スタジオ3社のロゴが冒頭に映し出された経緯だが、先述したように、ディズニーが、2012年に「インディ・ジョーンズ」シリーズの製作権を所有するルーカス・フィルムを買収後、翌2013年にパラマウント・ピクチャーズから本シリーズの配給権とマーケティング権を購入。

但し、パラマウントは過去4作の配給権のみ未だ保持しており、またインディの新作が作られた場合、その配収から分配金を得る契約があるため、今回はそういった大人の事情で(笑)、ディズニーとの共同製作としてクレジット表記されている。

そして本題の、パラマウントの“ロゴからのディゾルブ”が無くなってしまった理由だが、これは1作目「レイダース」製作前の1978年まで遡らなければならない。

その年の春から夏にかけて、ルーカスとスピルバーグは、「レイダース」(注:当時の仮タイトルは「インディアナ・スミス」)についてのストーリーの細部設定と、ビジネスとして成立させるための契約書類を作成、ハリウッドにある全大手スタジオに送付し、リアクションを待っていた…。

契約書の内容だが、製作費は2000万ドル、スピルバーグの監督料は前金で150万ドル、ルーカスのプロデュース料も前金で200万ドル、その他に配給費用は全て製作スタジオ持ちで、利益に応じて二人の報酬を追加支払いするという、アメリカ映画史上前代未聞の条件で、当然、各社ともこの法外な利益配分に嫌悪を示し、企画を黙殺。

だが、一人だけ、この条件に食いついた男がいた。
当時パラマウントの製作部長で、その後ディズニーの最高経営責任者(CEO)となるマイケル・アイズナーである。
1978年12月、ルーカスとスピルバーグはパラマウントと無事、契約を結んだ…。

つまり、過去4作の冒頭で、必ずパラマウントのロゴが実景の山へとディゾルブして物語が始まるのは、マイケル・アイズナーに対しての “敬意の表れ”なのである。

しかし、1984年ディズニーのCEOに就任したアイズナーは、何にでも口を出さないと気がすまない性格が災いして、ウォルト・ディズニー創業者一族と軋轢を起こし、その独裁的態度は社内外から批判が殺到。2000年代に入るとディズニーの業績悪化を招いた要因として、株主総会で度々吊し上げられ、ついに2005年、アイズナーはディズニーを辞することなる。

そんな経緯・理由があるからこそ、本作「運命のダイヤル」でパラマウントのロゴからディゾルブすることなど、ディズニーは絶対に許可出来なかったのだろう…。




追補:
本作が公開されて約1カ月以上が経つが、今でもレビューでよく見かける意見が、序盤でのビートルズの楽曲「Magical Mystery Tour(67年)」の使われ方だ。

まぁ、タイトルを直訳すれば「摩訶不思議なんちゃら」なので、インディっぽいという感じもするし、歌詞の「The Magical Mystery Tour is Waiting to Take You Away〜♪(マジカル・ミステリー・ツアーが、君を遠くまで連れていくよ!)」を聴けば、物語の展開=「アンティキティラのダイヤルが、インディを遥か過去の世界へと誘う」を予兆しているようにも思える。

しかし多くの意見は、楽曲のリリースが本作の舞台1969年の“2年前”、1967年11月なので、ちょっと古すぎるというのだ。

あくまでも勝手な推察だが、劇中、大音量で流していた隣室の若者たちは、間違いなく1967年のサマー・オブ・ラブで盛り上がったフラワームーブメント世代なので、同年に発表された「Magical Mystery Tour」を愛聴しているのは、一応、道理にかなっていると思うし、当時のビートルズのメンバーも、LSDをバリバリ服用しながらレコーディングしていたらしい。

ちょっと前だが、「ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ(21年)」の劇中、ウディ・ハレルソン演じるヴィランが、「The Magical Misery Tour」という全く笑えないダジャレとして使っていたが、それよりはまだ、マシたったのではと、個人的には思う…(笑)。

本作の現代(=1969年)の導入部は、観客にその時代背景を読み取らせる上では、よく出来ていたのではないだろうか。

「Magical Mystery Tour」と共に流れるのが、宇宙時代の到来を感じさせる曲、同年7月にリリースされたばかりの
デヴィッド・ボウイの「Space Oddity(69年)」

そして隣人の騒音に叩き起こされたインディが、慌てて後ろ前で着るTシャツ。
それ、野球チームのシカゴ・カブスのTシャツなのだ…。

ただし、カブスはイリノイ州シカゴをホームとするチーム。
でも現在、インディが住んでいるのはニューヨーク。インディが生まれたのはニュージャージー。
たしかにインディは学生時代に僅かながらの間、シカゴ大学でレイブンウッドに師事しているが…。

実は、ハリソン・フォードの出身地がシカゴ(!!)

本作の舞台となる1969年シーズンのカブスは、開幕ダッシュに成功して、ナ・リーグの東地区でずっと首位を独走していたが、終盤に躓き、なんと劇中インディが住んでいるニューヨークをホームとするメッツに優勝をさらわれてしまう。
(注:ちょうどパレードが行われた頃にカブスが失速し始めます…)

多分、当時17歳で地元シカゴに暮らしていたハリソンからしてみれば思い出したくもない最悪のシーズンなのだろう。

楽屋オチ的ジョークだが、そんな理由で、ハリソン=インディはバットを持って「あの時の恨み、晴らさでおくべきか!」とばかりに、ニューヨーカーの若造の部屋に殴り込むのだ…(笑)